快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

初心者のための田辺聖子~ハイ・ミス小説のオススメ(中級編)~『愛してよろしいですか?』『夢のように日は過ぎて』『薔薇の雨』

それにしても、ハイ・ミスにとって

「……たら」

というのは禁句なのであることを、知らないのかなあ。

私と小田美枝子がしゃべっているとき、どちらかが「……たら」というコトバを使うと、

「タラは北海道!」

と叫んで、次の言葉を封じてしまう、約束ごとがある。

(もし、あのとき、こうなってたら……)

(もし、あの人と結婚してたら……)

なんて、いっていたら、ハイ・ミス商売は張っていけない。前だけ向いてあるきましょう。

   さて、田辺聖子さんは長いキャリアにおいて、現代を舞台にした恋愛小説から古典を題材にした物語、また「カモカのおっちゃん」シリーズなどの軽妙なエッセイ、実在の人物の評伝など幅広い作品を書かれているが、代表となる作品群の筆頭に “ハイ・ミス” ものを挙げることができるだろう。

 といっても、いまや“ハイ・ミス”と聞いてもピンとこない方も多いかもしれない。大辞林によると、“ハイ・ミス”とは「年のいった未婚の女性」と定義されているが、田辺作品での “ハイ・ミス” とは、三十歳以上の独身であるということに加えて、自立した働く女性という意味もあるように思える。現在でいうと、少し古いけど ”負け犬“という言葉が近いだろう。

 この一連の“ハイ・ミス”作品群では、“ハイ・ミス”たちが自分より一回り年下の若い男たちや、あるいは一回り年上の人生経験豊富な男たちとくり広げる恋愛模様が描かれている。
 いまの目から見ると、大人の女を主人公にした恋愛小説というとさほどめずらしくもないかもしれないが、田辺聖子さんが “ハイ・ミス” ものを書き始めたのは1970年代前半である。昭和四十年代後半だ。

 もちろん「セクハラ」などの言葉も概念も存在せず、ほとんどの女性が二十代で結婚して仕事を辞めて、家庭に入っていた時代だ。

 三十過ぎた独身女性というと、周囲から「はよ結婚せなあかんで」とやいやい言われるのは当たり前で、堂々と「行き遅れ」「オールドミス」と侮蔑されることもめずらしくなかった。当時の「三十過ぎた独身女性」は、いまの三十過ぎの独身女性とは見られ方もまったく異なっていただろう。

 そんな時代に、結婚もせず、家庭に属することなく “ハイ・ミス”として生きていこうとするのだから、弱気になってなんかいられない。

 冒頭の引用は、三十四歳の斉坂すみれを主人公とする、”ハイ・ミス” ものの代表作のひとつ『愛してよろしいですか?』からであるが、「ハイ・ミス商売」を張っていく気構えが示されている。 

愛してよろしいですか? (集英社文庫)

愛してよろしいですか? (集英社文庫)

 

  また、もうひとつの代表作と言える『夢のように日は過ぎて』では、主人公である三十五歳のキャリアウーマン芦村タヨリは「アラヨッ」という「こだわりフレーズ」を持っている。 

夢のように日は過ぎて(新潮文庫)

夢のように日は過ぎて(新潮文庫)

 

  「アラヨッ」というのは、「飛び移る、乗り換える、乗り越える」といった「思い切った行動をとるときのかけ声である」と書かれている。
 同じかけ声であっても「ヨイショ」とちがう点は、「ヨイショはすすまぬ気持ちを引き立てて」という、誰かから強要されたことに取り組むような「消極的な受け身の生きかた」をあらわしているが、  

「アラヨッ」というとき、本人の弾みがある。面白がってやってる感じがある。人の目を意識してるサーカスの曲芸みたいなところがある。 

 と説明されている。そうだ、「ハイ・ミス商売」はけっして誰かから強要されたものではない。
 逆に、人並みの生きかたを押しつけようとする世間の圧から逃れるための「サーカスの曲芸」のようなものだ。自分の人生を「面白がって」生きるためには、景気のいいかけ声が欠かせない。

 それにしても、このタヨリ姐さんは、田辺作品の”ハイ・ミス”主人公の中でも、きわめて威勢がいい。母親のいつもの小言を聞いて、こう考える。 

(結婚せえへん人間は修養が足らん。人間がでけへん。結婚したら人間ができますねん、あんたはまだ半人前や)

人間ができりゃいいってもんではない。人間ができるというのは伝統的演技力を身につけることであろうけど、それではワンパターンの人生になってしまう。夫の姓を名乗り、うっとうしいオジンオバンを、おとうさんおかあさんと呼び、いけすかない男や女を、おにいさんおねえさん、おとうといもうとと呼ぶなんて、どう考えても、私にはできない。やりたくない。

  ここから結婚というものについても考察するのだが、「私自身、家事はキライじゃないけれど、ずーっと、ヒトの分もさせられるというのはいやだ」という結論に至り、この小説は昭和から平成にかけて書かれたものなので、三十年以上前の作品だが、現在もほとんど変わっていないことを実感する。

 しかし、世間の風当たりには強気に立ち向かう ”ハイ・ミス”だが、恋愛においてはなかなかそうはいかない。

 そもそも、いい歳をした独身の働く女の前に、真面目で純情かつ誠実な若い独身男性といった、学生時代にはごろごろ転がっていたかもしれない男がやって来ることはそうそうない。(個人的実感も含まれているかもしれないが……)

 あらわれるのは、酸いも甘いも嚙み分けた既婚者、あるいはバツイチだったり、若い独身であっても、ワガママな坊ちゃん男だったり、自由過ぎて何を考えているのかつかめなかったりとクセの強い男ばかりだ。

 『愛してよろしいですか?』のすみれは、旅先のローマで出会った一回り年下の大学生ワタルにふりまわされる。心のおもむくままの行動をとるワタルに「狼狽させられ」、「彼の若さを、痛感させられてしまう」。 

何かにつけ、〈させられてしまう〉という受け身であるところに、彼との関係の特色があるが、それは不快なのではないのである。

そして恋においては、率直なほうが優位に立つ。

また、率直は伝染する。そして相手を武装解除させる。

 と、全集の解説で田辺聖子さん自らが書かれているが、「恋においては、率直なほうが優位に立つ」とは、真理ですね。

 短編『薔薇の雨』では、千日前の丸福珈琲で「人目を忍ぶ」ふたりが密会する。といっても、ふたりとも独身なのでとくに人目を忍ぶ必要はないのだが、強いていうと、(二人の年齢に対して)という思惑がある。
 そう、ふたりは五十歳と三十四歳のカップルなのだ。

薔薇の雨(新潮文庫)

薔薇の雨(新潮文庫)

 
 

 もっとも留禰は五十歳にみえないほど若々しいのを自分で知っているし、守屋も三十四歳という年齢よりは、どちらかというと老けてみえるのも事実なので、傍目にはとりたてて不釣合なカップルには見えないだろう。

  五十歳と三十四歳というと、つい男が五十歳で女が三十四歳だと思ってしまいそうになるが、この小説では女の留禰が五十歳だ。

 といっても、『愛してよろしいですか?』同様に、手練手管の中年女が初心な若い男を手玉にとってふりまわす話などではない。
 たしかに、五十になった留禰は、男の身勝手、聞き分けのなさに微笑しながらも、(身勝手で聞き分けないから男なんだ)と思える分別を持ち合わしている。そしてまた同時に、そろそろ若い男と別れる潮時かもしれない、と考える分別も。

 三十四歳の守屋には、若い女との縁談も持ちこまれている。
 留禰は守屋との別れのことばかり考えてしまう。どうやったら傷つかずに別れられるのか? いざ別れが訪れたとき、髪をふり乱して相手にすがるような真似は絶対にしたくないと強く思う。けれども、実際にそのときになれば、もしかすると泣きわめいて引き止めようとするかもしれないとも想像する。

 タヨリさんの「アラヨッ」じゃないが、「信条」を持たなければならないと心に決める。 一方、若い守屋は、「信条」なんて持たないことが「信条」だと言ってのける。 

「オレ? 何もない。何かきめても場合によってはクラッと正反対のことをやるから、きちんと筋を通されへん。なまじ信条や憲法があると、それに振りまわされてしまう」

  理性と情念を冷静に天秤にかけようとする留禰と、そんなものをひょいと乗り越える守屋。年上の女の揺らぐ心情に男女のちがい、そしてそこから生まれる機微を、短編でこれほど描き切るとは見事だとあらためて感じる。

 しかし、田辺作品に描かれた「大人のおとぎ話」ともいえる恋愛模様やときめきが、どれくらい現実に起こり得るのかはわからない。

 一連の“ハイ・ミス”作品に出てくる、甘く優しく、かつ怜悧な若い男や、人生の裏も表も知っている魅力的な中年男なんて、ほんとに実在するの? ツチノコネッシーと同類じゃないの?? という気持ちになる妙齢の女性も多いことでしょう。けれども、

 ときめいたり、華やいだりという気持ちは、本当は人生のどこにでも撒かれている〈星〉だから、もし巡りあったときには大事にして、喜んで、いつまでも心に残る思い出になってほしいですね。 

([た]1-1)百合と腹巻 Tanabe Seiko Co (ポプラ文庫)

([た]1-1)百合と腹巻 Tanabe Seiko Co (ポプラ文庫)

 

 と、田辺聖子さんが語られている(「薔薇の雨」も収録されている『百合と腹巻』のインタビューで)のを胸に刻んで、タヨリさんのようにこうやって過ごすしかないのでしょう。

私は、これから先、どんなことが起きても

「アラヨッ」

で乗り切ろうと思う。

 

 

 

 

初心者のための田辺聖子~入門編~ 『ジョゼと虎と魚たち』『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』

「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」

  田辺聖子さんが亡くなったので、小説やエッセイを読み返しているここ数日。
 そこで、まだ読んだことのないひとのために、「入門編」として、いくつかオススメ作品を紹介したいと思います。すべて結末が伺える内容になっていますが、ミステリーではなく、話の筋を知っていても楽しめると思いますので何卒ご容赦を……

 短編で一番知られているのは、妻夫木聡池脇千鶴主演で映画化された「ジョゼと虎と魚たち」でしょうか。 

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

  ごくふつうの大学生活を送る恒夫が、脚が不自由な少女ジョゼとひょんなきっかけで出会い、ジョゼと祖母がひっそり暮らす家に出入りするようになる。

 ほんとうはクミという名前があるのに、サガンの小説に憧れてジョゼと名乗り、高飛車で口鋭いジョゼに、恒夫はとまどいつつも興味を抱く。ある日、就職活動に追われていた恒夫がひさしぶりにジョゼの家を訪れると、祖母が亡くなっていて、ジョゼはアパートでひとり暮らしをはじめていた。そのまま恒夫はジョゼと一緒に暮らすようになるのだが……

 たったこれだけの話なのに、どうして胸をうつのか考えると、物語全体がはかなさやこわれやすさ、英語でいう”fragile”なトーンにおおわれているからではないだろうか。

 まずは、ジョゼ自体が ”fragile” な存在である。脚が不自由で人形のようにか細く、色が抜けるように白い。すぐに呼吸困難になる。
 生活保護に頼るジョゼと祖母の生活も不安定なものであり、まして祖母が亡くなり、「市役所の人」や「ボランティアの女の人」に頼るしかなくなった、ジョゼの暮らしが心もとないのは言うまでもない。
 そしてなによりもはかないのは、ジョゼと恒夫の恋である。 

二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。

  世間から隔絶されたように暮らしはじめるジョゼと恒夫。まるで世界に自分たちふたりきりしかいないような、宙ぶらりんの生活。ジョゼは水族館の魚のように「海底に二人で取り残されたよう」な気がする。

 先に、恒夫について「ごくふつうの大学生活を送る」と書いたけれど、人となりも「ごくふつう」であり、とくに繊細だったり鋭敏だったりするわけではない。ジョゼからサガンの小説の話を聞いても、まったくピンとこないし、ジョゼの理解者や共鳴者として描かれてはいない。

 この小説にかぎらないが、田辺聖子さんのすごいところのひとつは、男を安易に「女の理解者」にしないところ、つまり「このひとだけが私のことをわかってくれる」なんて都合のいいことはけっして描かない点だろう。(と思ったら幻想だった、という展開はあるかもしれないが)

 恒夫の行動はすべて「……させられてしまう」と記されているように、だいたいにおいて能動的ではなく、ブラックホールに吸い寄せられるように、ジョゼに吸い寄せられていく。流されていくままの男を引き留めておくことができるのだろうか?

 小説ではこのふたりがどうなるのかまでは描かれていないが、犬童一心監督と渡辺あや脚本の映画では、はっきりと示されている。
 妻夫木聡の演技によって、恒夫の善良さ、凡庸さ、そして弱さが際立っている。こういう「ふつう」の男子を演じるの、妻夫木くん、ほんと上手いですね。ちなみに当時この映画を見て、いい俳優いるなと思ったのが、新井くんだった……

 小説の結末は、ジョゼがうっすら予感するだけだ。それでいいとジョゼは思う。
 冒頭に引用した虎の場面も、その勇猛さによって、ふたりの恋のはかなさがいっそう引き立っているが、一生見ることはないかもしれないと思った虎を一度でも見ることができたのだから、ジョゼは満足したのだろう。

 長編の代表作は、やはり『言い寄る』『私的生活』『苺をつぶしながら』の乃里子三部作でしょうか。 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 仕事も私生活も順風満帆で、恋愛にも奔放な31歳の乃里子。近寄ってくる男にも不自由しない。けれども、ほんとうに好きな相手にはどうしても言い寄ることができない……

 これが第一作の『言い寄る』。恋愛小説の鉄則ですね。
「手に入れるのが困難なほど、対象の価値が高まる」とシェイクスピアが言うように(チャールズ・ラム『シェイクスピア物語』の「ロメオとジュリエット」より)、手に入れられないものほど執着してしまうというのが、昔からの人間の心理であり真理。スカーレット・オハラとアシュレーを思い出したひともいるのではないでしょうか。

 私としては、いま映画がヒットしている『愛がなんだ』を見て、苦しくなったひとにも勧めたい。(と言いつつ、映画の方はまだ見に行けてないけれど……噂によると、原作ほどつらくないらしいが。以前原作を読んだときは、自分の立っている足元がすっぽり消えて闇に落ちてしまったような、恐ろしい気持ちにとらわれた) 

愛がなんだ (角川文庫)

愛がなんだ (角川文庫)

 

  『言い寄る』で、つい自分に都合のいいように相手の言動を解釈してしまう、現実から目をそらしてしまう……といった誰もが犯してしまう、みっともない恋愛の失敗が赤裸々に描かれたかと思うと、続く『私的生活』『苺をつぶしながら』では、愛しあっているふたりの関係が暗礁に乗りあげ、ずたずたになっていくさまが容赦なく描かれている。


 あんなに楽しく素敵な恋愛だったのに、あれだけ溌溂としていた乃里子だったのに、と眩暈すら感じる。嫉妬やプライドや意地が絡みあい、傷つけあうことしかできなくなるふたり。もうこれ以上優しくできない、と乃里子が心を決めるくだりには、胸を突かれる思いがする。

 そう、田辺聖子さんの作品は、もしかしたら「女性向けの恋愛小説」というくくりや、ご本人の愛嬌のある優しい雰囲気から、軽くて甘いだけの小説というイメージを持っている方もいるかもしれないが、けっしてそうではない。

 愛読者には言うまでもないことだけど、ご都合主義に流れることなく、人間と人間の関わりがシビアな視線で描かれている。そしてそれでもなお、軽さや甘さ、優しさを軽んじることなく大切にしたところが、ほかの作家にはない、唯一無二の魅力なのではないだろうか。

 ポプラ社文庫の田辺聖子コレクション、『うすうす知ってた』の解説のかわりのインタビューではこう語っている。(このシリーズは、解説のかわりにインタビューがあり、おもしろく読みごたえがあるのでオススメ) 

小説はどんなふうにでも書けるけれど、「かくあらまほしい」という物を書きたいという気持ちが、心の底にあるのね。

醜いものを醜いままに書くのではなく、「こういうふうに考えたらいいんじゃないかしら」とか、「うまくいくんじゃない?」「こういう人間関係って素敵じゃない?」とか。理想というか希望があるものを書きたいんです。

  ほんとうはもっと紹介したかったけれど、もうすでに長くなってしまった……また続きを書きたいと思います。

誰もがみんな自分の人生の当事者――『図書室』(岸政彦 著)ほか『新潮』(2018年12月号)

どんな猫でもいいから、一匹の猫を(あるいは二匹の猫を)徹底的に幸せにしてあげたいなと思う。日当たりの良い場所に小さな寝床をつくって、そこに可愛らしい柄の、柔らかい毛布を敷いてあげたい。猫は自分が、ありえないほど幸せであることを自分でも気づかないまま、ゆっくりと手足をのばして、ぐっすりと眠るだろう。

  『新潮』(2018年 12月号) に掲載されている『図書室』を読みはじめるやいなや、主人公である団地でひとり暮らしをしている女が、雨を眺めながら猫を飼いたいと思う冒頭の場面が、まさに数年前の自分の姿そのものでギョッとした。 

新潮 2018年 12 月号

新潮 2018年 12 月号

 

   いつの間に見られていたのか? と思ってしまうほどに。

 もう少し読むと、当然ながら、主人公とは年齢もバックグラウンドも異なることに気づき安堵するのだが、それでも、他人事とは思えない要素――無印のシングルベッドに寝ているという些細な点から、「梅田に行って、阪急の紀伊國屋茶屋町ジュンク堂で何か本を買おう」とふと思ったり、「適当に選んで入った人材会社から派遣された」法律事務所で働いている(私の場合は特許事務所ですが)という経歴まで――が多々あり、なんだか落ち着かず、心の置きどころのわからないままひきこまれ、読みふけってしまった。

  「老いることを意識しだした」主人公は、ここ最近、子どものころのことばかり思い出してしまう。
 母親と猫たちと長屋で暮らし、夜の仕事で帰りが遅い母親を待ちながら猫たちと眠りについた夜。女の子の友だちとダイエーの二階のファンシーショップにクリスマス会のプレゼントを買いに行ったこと。そして、いつも通っていた公民館の図書室で出会った男の子。

 苦手な男子に図書室の自分の場所を横取りされ、主人公は「すごく嫌」だと思う。クラスの男子は美由紀ちゃんのかばんに大量のダンゴムシを入れたりするし、とにかく「最低」で「みんなバカ」だから。 

とにかく、私たちはもう十歳かそこらで、男というものに絶望していたような気がする。絶望というのは少しおおげさかもしれないが、男子たちの行動の理由や動機というものは一生かけても私たちにはわからないし、そういう生き物たちに言葉が通じるとはどうしても思えなくて、だからそもそも男というものは話し合いの対象にはならないと思っていた。

  けれどその図書室の男の子とは友だちになる。別の学校に通う子と仲良くすることは、なんだか自分だけの秘密のようでわくわくする。

 冬休みになり、毎日のように図書室に通うようになるが、どれだけ早起きして行っても、その男の子はいつも座っていて、宇宙や地球や恐竜に関する本を読んでいた。そしてある日突然、男の子が言う。 

「太陽って、いつか爆発するねんで」 

  いつか太陽がどんどん大きくなって地球をのみこみ、みんな死んでしまうというのだ。
 主人公と男の子は人類が滅亡し、野良猫も野良犬も動物園の動物もみんな死ぬことを想像する。あの『かわいそうなぞう』どころの話ではない。ふたりはぼろぼろと泣いてしまう。そこて、来たるべきその日に備えて缶詰を買いだめし、淀川の河川敷へ向かう。

 この子どものころの回想では、冒頭の場面を読んだ私のように、かつての自分の姿をそこに見出し、かつて抱いた感情がひしひしと胸に迫ってきたひとが多いのではないだろうか。

 「いつか地球が滅亡する」「いつかみんな死んでしまう」――突如としてそのことにはっと気づき、パニックに陥りそうになった子ども時代の自分。いてもたってもいられない気持ちになったあのとき。誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。

 まるで自分の人生が再現されているかのように感じてしまうくらいに、どうしてこんなに鮮やかに人生の断面を切り取り、いきいきと描き出せるのだろうと考えていると、前に読んだ『街の人生』を思い出した。 

街の人生

街の人生

 

  『街の人生』は、岸さんが社会学者として行ったインタビューを基にした本で(と言いつつ、よう知らんけどたぶん)、外国籍のゲイ、ニューハーフ、シングルマザーの風俗嬢、といった様々なひとたちの語りがそのまま再現されている。興味深かったけれど、正直なところ、自分が住む世界とまったくちがう世界で生きるひとたちを覗き見するような感覚で読んだ。

 でもこの『図書室』を読んで、『街の人生』は異世界のルポタージュでもなんでもなく、どちらも私たちの住むこの世界を描いていて、本質的には地続きなものだったのだと気づいた。

 図書室から世界の終わりを見つめる子どもたちも、南米からやって来たゲイも、ホームレスとして暮らすひとも、みんな自分と同じように「普通の人生」を生きていて、誰もがみんな自分の人生の当事者であるということが強く感じられた。

 そう、当事者性が濃厚に漂っているのかもしれない。この小説をわかりやすく表現するならば、郷愁とかノスタルジーという言葉になるのかもしれないが、冒頭を読んだ私が思わずギョッとしたように、ただのほのぼのしたノスタルジーではなく、もっと生々しい、ひやりとした手で足首をつかまれるような感触があった。
 ――が、それは私がこの小説の舞台のような淀川の流れる町で育ったから、よけいにそう思うのかもしれないけれど。

 ところで、この『図書室』を読むために、図書館から『新潮 2018年12月号』を借りた。文芸誌ってふだん手に取ることはあまりないけれど、こうやって読んでみると、なかなか盛りだくさんの内容だ。

 高橋弘希芥川賞受賞第一作「アジサイ」も読んだ。(しかし、最初に写真を見たときからバンドマンみたいやなと思っていたけれど、実際に元バンドマンのようですね)
 何の前ぶれもなく、唐突に妻が主人公のもとを去って実家に帰ってしまう話。

 「何の前ぶれもなく」と夫の視点で書かれているが、読んでいると主人公が凡庸で鈍感であるのが伺えるので(町内会の掃除当番などもまったく知らなかったりとか)、こういうところが去られた原因なのでは…? という気もするが、いや、こういうありがちな理由より、もっと謎めいたもの、根源的な何かがあると考えた方が、小説の読解としては正解なのだろうか。

 ほかにもこの号では、例の『新潮45』の検証や、ブレイディみかこによるレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』の書評もおもしろかった。

  以前紹介した『あの素晴らしき七年』(秋元孝文 訳)のエドガル・ケレットのインタビューも、本でも描かれていた家族の話から、アメリカのユダヤ人作家やヘブライ語についての話、そして、トランプ大統領パレスチナ問題といった世界情勢に至るまで、幅広いテーマについて語られていて非常に読みごたえがあった。 

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

  また、ヘミングウェイの未発表小説「中庭に面した部屋」(今村楯夫 訳)も、ごく短い作品だったけれど、第二次世界大戦の終わりを迎えようとしているリッツ・ホテルが舞台となっていて、以前にも紹介した『歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)』(ティラー・J・マッツェオ 著 羽田 詩津子 訳)を思い出した。

 そのせいか、訳者の今村さんの解説を読むまで、「中庭に面した部屋」を小説ではなく随筆だと思いこんで読んでしまい、クロードって誰やったっけ? なんて考えてしまったが…。 
 しかしまあとにかく、『歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)』は、ヘミングウェイプルーストといった文豪から、ココ・シャネルなどのセレブリティがいっぱい出てきて、とくに歴史に詳しくなくてもおもしろく読めるのでおすすめです。

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

 

  あ、そして、『図書室』はもうすぐ単行本で出るらしい。書き下ろしのエッセイも収録されるようで、雑誌で読んでいても買いたくなってしまう恐ろしい罠ですね… 

図書室

図書室

 

 

 

 

 

 

これで悩みも即解決!?なブックガイド『文学効能事典 あなたの悩みに効く小説』(エラ・バーサド・スーザン・エルダキン 著 金原瑞人・石田文子 訳)

 それにしても『文学効能事典』を読むのは楽しい。 

文学効能事典 あなたの悩みに効く小説

文学効能事典 あなたの悩みに効く小説

 

  『文学効能事典』では、「あなたの悩みに効く小説」とのサブタイトルのとおり、さまざまなお悩みに対して、この本を読みさえすればたちまち解決!…とまでは謳っていないが、悩みを解決するヒントになる本を勧めている。

 ちなみにどういう悩みかというと、「片思いのとき」「忙しすぎるとき」「孤独なとき」「無職のとき」といったよくある悩みから、「悪魔に魂を売り渡したくなったとき」「頭がよすぎるとき」「ネクタイに卵がついていたとき」などといった、かなりニッチな状況のものもある。

 これらの悩みに対する処方箋として本が紹介されているわけだけど、納得! というものもあれば、そうかな? とか、なんでまた、というのも結構あって、それはそれで楽しい。

  上の例でいうと、「頭がよすぎるとき」→『フラニーとズーイ』は王道と言えるでしょう。
 「ネクタイに卵がついていたとき」では、「チャールズ2世時代の堕落した宮廷を舞台に、(主人公)メリヴェルは17世紀の世の中のみだらな快楽を飽くことなく追い求める」という『道化と王』が紹介されていて、下品でだらしない男であるメリヴェルは、娼婦とのハレンチ行為に夢中になったり、ズボンに卵をつけたり、すぐにおならをしたりと、あちらこちらで醜態をさらしながらも、それによって王の寵愛を手に入れる物語らしい。前から気になっていたが、やはり必読本だとあらためて思った。 

道化と王 (ヨーロッパ歴史ノベル・セレクション)

道化と王 (ヨーロッパ歴史ノベル・セレクション)

 

  「恋人と別れたとき」→『ハイ・フィデリティ』というのも納得。原作もおもしろかったし、映画の方も原作のよさが生かされていて、ジョン・キューザックはもちろん、ジャック・ブラックが素敵だった。 

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)

ハイ・フィデリティ (新潮文庫)

 

その「恋人と別れたとき」では、前に紹介した『話の終わり』も挙げられていて、これまた納得。年下の男と別れた主人公の女が、ほぼ、というか完全にストーカーと化すさまが痛ましく、でもどこかユーモラスな、切ない愛の物語でした。

……と言いつつ、そもそも、本を読んで失恋の痛みが消えるのだろうか? という根源的な疑問はもちろんありますが。

 根源的な疑問というと、「死ぬのがこわいとき」の小説も紹介されていて、ほんとうに死ぬのがこわくなくなるかどうかはわからないけれど、紹介文にはなんとなく納得させられた。

 けれど、翻訳者の金原瑞人さんのあとがきでも触れられている、「恋愛ができなくなったとき」、つまり「愛の終着点にたどり着いてしまった人」へのお勧め本は……正直、うーん、と思ってしまったが。いや、この作者のファンなのですが、この作品はちょっと読むのがキツかったので。何の本か気になるひとはぜひ読んでみてください。

 

 こういった人生とはなんぞや? みたいな悩みばかりではなく、日常の悩みも取りあげられている。「月曜の朝が憂鬱なとき」とか。しかし、ここでは『ダロウェイ夫人』が推奨されているが、これも正直、『ダロウェイ夫人』を読んで、いくらクラリッサが楽しげでも、自分がさあはりきって会社行こう! と思えるかというと…… 

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

 

  とまあ、こんな具合にいろいろ楽しめるこの本ですが、一番の楽しみ方は、先日梅田蔦屋書店のイベントで金原さんも語っていたように、自分でもお勧め本を考えてみることではないでしょうか。ということで、私もいくつか考えてみました。

 まずは、この本でも取りあげられている「恋した相手が既婚者でもあきらめられないとき」。この本のセレクションも納得なのだけど、私が勧めたいのは、井上荒野の『ズームーデイズ』。 

ズームーデイズ〔小学館文庫〕

ズームーデイズ〔小学館文庫〕

 

 主人公の小説家「私」は、妻ある「恋人」カシキがいながらも、8歳年下の学生アルバイト、ズームーと暮らしはじめる。ズームーとの日々は穏やかで心安らぐものだったが、カシキから連絡があると、何をおいても会いに行ってしまう……

私はカシキに使われていた。そうして、カシキに使われない自分になるべく、ズームーを使ったのだった。

 とにかくめちゃくちゃつらい物語なのだけど、どうしてお勧めしたいかというと、最後に出口が見えるので。つらさをくぐり抜けた先に、ああこういうことなんだな、と心にすとんと落ちるものがある。

 現在進行形でつらさ真っただ中の場合は、こんな気持ちになることなんてあるのだろうか? と思うかもしれないが、いつかきっとそのときは訪れる、と言いたい。
 といっても、私も悟りの境地に至っているわけではなく、ある地獄を抜けたら、また別の地獄に入っていた、ということかもしれないが……

 あと、「アルコール依存症のとき」には、小田嶋隆さんの『上を向いてアルコール』を勧めたい。けれども、タバコは吸わず、酒もほとんど飲まない私は、依存症から遠く離れた性質なので、この本を読めばアルコール依存がよくなるのかどうかはわからない。ただ、アルコール依存に陥る過程について、そういうことかと気づかされたので挙げてみた。

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

 

 何に気づかされたのかというと、アルコール依存に陥るのは、悩みごとや忘れたい事柄があるからではないかと思っていたが、小田嶋さんはきっぱりと否定している。
 酒で現実逃避はできない、嫌なことを酒で忘れることなんてできない、と考えたら至極あたりまえのことを語っている。仕事のストレスのせいで酒に溺れた……とかいった、後付けのストーリーはみんなウソだと述べている。

 ではなぜ、アルコール依存症になるのか? なる人とならない人がいるのか? 
 それについてははっきりと答えは出ていない。遺伝的な体質も関係しているようだし、環境(会社員かフリーランスかといった)も大きく影響する。
 
 ただ確実に言えるのは、アルコール依存症は「否認の病」と言われているように、患者は「自分はアルコール依存症ではない」と強く思っている。たまには飲まない日もある、毎日ものすごい量を飲んでいるわけではない……と心の中で「証拠」を抱いている。
 となると、大事なのは、自分が依存症であることを認めること、つまりは自分のもろさや弱さと向きあうことなのかな、と感じた。

 ついでに、「薬物依存症のとき」には、レッチリのアンソニーの自伝『スカーティッシュ』もお勧めしたい。

スカー・ティッシュ―アンソニー・キーディス自伝

スカー・ティッシュ―アンソニー・キーディス自伝

 

  結構前に原著で読んだのだけど、とにかくドラッグ漬け→これではダメだと必死で脱ドラッグする→けれどもまた元の木阿弥でドラッグに手を出す、その合間にはガールフレンドとつきあったり別れたり、というのがえんえんとくり返される。無限ループ? と思う瞬間もあったが、それだけドラッグと手を切るのは難しいのだろうと、つくづく考えさせられた。

 ジョン・フルシアンテの前のギタリスト、ヒレルがオーヴァードーズで悲痛な死を遂げるくだりも印象深かった。これを読むと「Under The Bridge」がいっそう胸に迫るのではないでしょうか。

 そして、上でも挙げた「死ぬのがこわいとき」には、『マハーバーラタ』にチャレンジしてみてはどうでしょうか。

原典訳マハーバーラタ〈1〉第1巻(1‐138章) (ちくま学芸文庫)

原典訳マハーバーラタ〈1〉第1巻(1‐138章) (ちくま学芸文庫)

 

  もちろんこれ自体、インドを代表する古典の名作であり、世界の三大叙事詩のひとつであるけれど、それだけでなく、サンスクリットの原典からの全訳に取りかかっていた上村勝彦氏が、全11巻のうち8巻目の途中で2003年に急逝したという事実を思うと、自分の命を投げうってこの本に情熱を捧げた姿が想像され(なにひとつ事情など知らないので、まったくの想像ですが)まさに身命を賭す仕事、という言葉が浮かんでくる。

 命あっての物種というのは身もふたもない事実ですが、自分の命よりも大事と思える何かに全身全霊で捧げてみるのもよいかもしれない。

 では最後に、「救いようのないロマンチストのとき」。
 この本で挙げられている、『恋を覗く少年』もすごくおもしろそうだけど(「ロマンスを崇拝し続け、その登場人物を十二宮図の神々のようにあがめて、自分を神々の使者を勤めたメルクリウスに見立ててきた」)、私としては、救いようのないロマンチストには坂口安吾を勧めたい。そのなかでも『青鬼の褌を洗う女』がいいのではないでしょうか。

 私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く。頭がカラになって行く。ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少なくなって行く。

 それにしても、自分で考えてみると、いくらでも思いついて楽しい。もっとニッチな状況についても考えてみたい。いろんなひとのブックガイドも聞いてみたいところです。

 

それぞれの愛と成長の物語が、ナイジェリアの物語と響きあう『半分のぼった黄色い太陽』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 著 くぼたのぞみ訳)

「われわれの土地について、彼らがおまえに教えることには答えが二つある。本当の答えと、学校の試験に通るための答えだ。本を読んで、両方の答えを学ばなければいけない。本はわたしがあたえる。すばらしい本だぞ」

  以前に『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を紹介しましたが、そのチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』を読みました。 短編はこれまでも読んでいたけれど、長編を読むのはこれがはじめて。

半分のぼった黄色い太陽

半分のぼった黄色い太陽

 

 アディーチェは代表作『半分のぼった黄色い太陽』――ビアフラ戦争(1967年~70年)の影響を主要人物3人を通して追う物語――のタイトルを、ビアフラの旗のシンボルにちなんでつけた。

 と、『世界文学大図鑑』に紹介されているように、この『半分のぼった黄色い太陽』は、1960年代のナイジェリアを舞台にしており、クーデターとともにイボ族の虐殺がはじまり、イボ族がビアフラ国の独立を宣言して内戦へと発展する経緯が、物語の中でも描かれている。ビアフラの旗は、このウィキペディアのページで画像を見ることができますね。 

世界文学大図鑑

世界文学大図鑑

 

  60年代前半、大学町スッカで数学を教える若い学者オデニボのもとに、村育ちの少年ウグウが住みこみのハウスボーイとして雇われるところから、物語がはじまる。
 イギリスの支配から独立したばかりのナイジェリアに情熱と誇りを抱くオデニボは、週末になると学者仲間と国の現状や将来あるべき姿について議論を戦わせていた。

 ウグウはちゃんとした教育を受けていないにもかかわらず、たいへん聡明な少年で、料理などの家事全般もすぐに要領を覚え、ご主人たちの議論に胸を躍らせ、心地よい英語の響きにうっとりと耳を傾けるようになる。冒頭の引用にあるように、オデニボはハウスボーイであるウグウにも勉強の大切さを教える。

 そんなオデニボとの生活に満足していたウグウだったが、ある日、ご主人の恋人のオランナが家にやって来る。 

彼女の名はオランナだった。でもご主人はたった一度しかその名を口にしなかった。たいてい「ンケム」と呼んだ。わたしの人、という意味だ。

  オランナは首都ラゴスの裕福な家庭で育った美しい娘で、“プリンス”と呼ばれるほどお金持ちの恋人ムハンマドもいたが、さほどお金持ちでもなく、しかも醜いと周りから言われるオデニボと恋に落ち、留学していたロンドンから帰国して、スッカでオデニボと暮らすことを決めたのだった。

 母親はオランナがスッカに住むのに反対だったが、オランナの双子の姉カイネネは、自分の恋人であるイギリス人のリチャードも、執筆活動のためスッカで暮らすことになったと告げる。

 リチャードはイボ=ウクウ美術に関心があり、ナイジェリアについての本を書きたいとイギリスからやって来たのだ。そして、とあるパーティーでカイネネと出会う。双子だというのに、だれもが美人だと褒めたたえるオランナにまったく似ていないカイネネにリチャードは目が離せなくなる。 

オランナの隣に立つと、カイネネはいっそう痩せて見えた。ほとんど両性具有といってもいい。タイトなマキシがボーイッシュなヒップラインを描き出している。リチャードは長いことカイネネを見つめながら、彼女も自分を探しあててくれないかなと思った。

  この小説は、ウグウ、オランナ、リチャードの三人の視点から交互に語られていく。

 最初の60年代前半の章は、独立してまもないナイジェリアの不穏な情勢について、オデニボと仲間たちは喧々諤々の議論を交わすものの、日常生活がおびやかされることはなく、オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、それぞれの愛の物語に主眼をおいて描かれている。

 次の章では、60年代後半が語られる。登場人物たちの関係は、一見大きな変化は無いように思えるが、何かがはっきり異なっている。決定的な何かが起きたのだ。

 そうしているうちにクーデターが勃発し、イボ人の虐殺がはじまる。白昼、公衆の面前でイボ人がむごたらしく殺されることが日常になる。
 リチャードは、ついさっき言葉を交わした相手が目の前で殺されるという体験をする。オランナは無残に殺された親族の家からほうほうの体で逃げ帰り、悪夢のような光景を目撃したショックから、身体が動かなくなる。

 ここで、また舞台はいったん60年代前半に戻り、オデニボとオランナ、カイネネとリチャードのあいだで起きた事件が語られる。四人がそれぞれ損なわれた、取り返しのつかない裏切りについて。

 最後は再び60年代後半に戻り、どんどんと泥沼化していくビアフラ戦争が描かれる。オデニボとオランナ、カイネネとリチャード、そしてウグウの全員が戦争に巻きこまれ、運命の歯車が狂いはじめる――

 この本を読むまで、ビアフラ戦争についてはまったく知らなかったけれど、戦争そのものがモチーフとして描かれているわけではなく、日常生活が戦争によって破壊されていくさまが描かれているので、予備知識が無くても問題なく物語に入りこむことができた。

 とくに、前半はそれぞれの愛の形――オランナのオデニボへの思い、リチャードのカイネネへの思い――について繊細に描写されていて、登場人物の心情がひしひしと伝わってくるので、ある事件でそれぞれが受けた心の傷、戦争に直面して混乱する姿がいっそう際立ち、強く胸に訴えかけてきた。 

一瞬、理不尽にもオランナはオデニボから去ってしまいたいと思った。やがて理性がもどってくると、彼を必要とせずに愛せたらいいと思った。必要が、努力することを免除する力を彼にあたえていたから。必要は、彼のまわりに頻繁に感じる選択肢のなさでもあったから。

 「必要とせずに愛する」というのは、たしかにひとつの理想のように思える。けれども現実には、そんなの不可能だ。愛するということは、相手を必要とすることなのだから。いや、もしかしたら、相手を必要とせずに、ただひたすら愛することができる地平が存在するのかもしれないけれど、いまの私には見当もつかない。

 以前『ホテル・ルワンダ』を見たので、たとえ同じ国民であっても、民族間の争いが恐ろしい虐殺に発展することも珍しくないということは知っていた。
 その原因は、植民地時代にヨーロッパの国々が好き勝手に線を引いてアフリカの大地を区切り、自らの領土とした土地を効率的に統治するために、民族同士を分断して支配したからだ。

 かつての宗主国から来たリチャードは、ナイジェリアではいつも居心地の悪い思いを味わう。ナイジェリア人と接する際には後ろめたさを感じ、アフリカを遅れた土地と見做している白人たちと接する際には憤りを覚える。
 皮肉屋で誇り高いカイネネに激しく魅かれながらも気後れを感じ、なかなか愛を成就させることができない。

 登場人物たちは目の前の愛をうまく扱うことができず、ときに裏切りに翻弄される。それをつぶさに観察しているウグウは、愛というものはまだ理解できず、幼なじみの相手にほのかな恋心のようなものを抱いているだけで、妹をはじめとする周囲の女たちがどんどんと成長し、大人になっていくのにひたすら慄く。

 けれども、戦争が激しくなるにつれて、何もかもが逆転する。

 オランナは、あれほど強くたくましく思えたオデニボの肉体が、痩せてすっかり小さくなっているのに驚く。一生忘れられないと思えた裏切りすらも、遠くなっていく。

 そして、それまでひたすら観察者だったウグウが、戦争という現実に否応なく直面させられる当事者となる。ほんとうに守りたい相手が見つかる。

 前半部分では、どうしてウグウが語り手なのかよくわからなかったが、物語の最終章でその理由が判明する。ウグウの登場からこの物語がはじまった意味がはっきりとわかる。ウグウが真の意味で語り手となり、この物語だけでなく、ナイジェリアを語り継ぐ存在となるのだ。

 登場人物それぞれの愛、裏切り、そして成長という個人的な物語を、国家や戦争という大きな物語に重ねあわせることに見事に成功した小説だと思った。次は『アメリカーナ』を読まないと。

まるでリトマス試験紙のように、自分を振り返る―『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ 著 斎藤真理子 訳)

でもそのときはわからなかった――なぜ出席番号は男子から先についているのか。出席番号の一番は男子で、何でも男子から始まり、男子が先なのが当然で自然なことだと思っていた。

 遅ればせながら、話題の『82年生まれ、キム・ジヨン』を読みました。 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

  この小説はご存じの方も多いでしょうが、1982年に生まれたキム・ジヨンが、ふとしたきっかけで、あたかも他人が憑依したかのように話すようになり、心配した夫に付き添われて病院に行き、そこの精神科の医師がキム・ジヨンの半生を綴るという設定になっている。

 なぜこの小説が話題になっているかというと、キム・ジヨンの半生を描くことで、韓国社会に色濃く残る男尊女卑の思想が浮き彫りになり、女性が差別されてきた長い歴史と、いまもなお差別が残る現在が告発されている。

 また、全世界での #Me Too ムーブメントとも連動した、フェミニズムの盛りあがりの波(が日本で起きたのかどうかはよくわからないが)に乗ったことも原因だと言われている。

 やっぱり、と私は思った。韓国は徴兵制があるせいかマッチョな男が多いと聞くし、男尊女卑もまだまだ根強いらしい。人気の韓国映画K-POPの裏側では、日本では考えられないようなひどい女性差別も残っているにちがいない。

 女は大学に行くなとか、勉強なんかせずに見た目を磨け、女に学問などいらない、女は仕事よりも結婚相手探しに励め、子どもを産まない女は女じゃない……みたいな偏見にキム・ジヨンが苦しめられて、ついには精神を病む物語なのだろう、と。

 そして実際読んでみると、あれ? 予想していたのと少しちがう、と思った。そこまでひどい現実かな? と思った。
 一番印象に残ったのは、さほど日本と変わらない、というか、なんなら日本よりましな面もあるのではないだろうか、ということだった。

 もちろん、冒頭で引用した学校の制度や、嫌がらせをしてくる同級生の男子、就職活動の大変さなど、女であるゆえの困難は描かれているが、一方で、韓国では戸主制度(日本で言う戸籍制度かな)は両性平等の原則に違反するとして、2005年に廃止されていたり、女だから勉強や進学しなくてもいいという考えはすでに消え去っている。

 姉とキム・ジヨンの進学を応援してくれた頼もしい母親に、それなりに優しく思いやりがある夫も印象深く、日本の現実より――少なくとも私の目に映る現実よりは――いいところもあるのではないか、最初に読んだときはそんな気すらした。

 そこで、あらためて自分のこれまでの学校や社会での経験を振り返ると――いつも男子が先の名簿(いまはちがうらしいですが)、女子の方がテストでいい点を取ると悪口を言う男子たち、女子は家から通える学校がいいという通念、「うちの女の子」と言う職場の男性たち、電話に出ると「男を出せ」と言う客、女性をすぐに「おばさん」呼ばわりする男性たち(「(○○は)おばさんだから」「あんなおばさんになっちゃダメだよ」……)、女性の容姿をけなす男性たち(「ブス」や「(○○は)顔がマズい」……)――ぜんぶよくあることだと思い、深く考えないようにしていたことに気づかされた。


 この現実を当たり前だと思っていたから、キム・ジヨンを読んでも、そこまで話題沸騰となるほど、ひどいことが描かれているのだろうか? と、一瞬不思議に感じてしまったのだ。

 そういえば、去年東京医科大の入試の不正問題が発覚したときも、そりゃそうだろうなと感じ、とくに驚かなかったことも思い出した。
 けれども、私が高校生だったころは、理系の女子は医学部を目指すのが好ましいとされていたのだ。いや、薬学部でも看護士でもいいから、医療系の仕事が推奨されていた。理由は、女性が企業で働き続けるのは難しいから。

 いまも現実はたいして変わっていないかもしれないが、当時は女性が企業で働き続けるのは難しい、というのが当たり前の前提として受けとめられていたのだ。(念のため、平成の話です)なのに、つい最近まで、医学部を受験しても点数で差をつけられていたのだ。

 この「キム・ジヨン」を読んで、自分がそんな理不尽な社会で生きていることを、あらためて突きつけられたように感じた。また、自分自身がそういう価値観を内面化していることにも気づかされた。
 「そういう価値観」とは、男女差別だけではなく「自己責任論」も加わっているかもしれない。

 先日なぜか知らぬ間に「人生再設計第一世代」なるものに位置づけられてしまったのだが、そのど真ん中の世代のせいか、「就職先が見つからない」「仕事を続けることができない」「生活が苦しい」のは、「自分が悪い」「自分の努力が足りなかったから」という思考回路が埋めこまれてしまっている。

 「自分が悪い」のではなく、「社会が悪い」という考え方もあり得るのだと思えるようになったのは、ごく最近のことであり、同世代(「人生再設計第一世代」)の多くはそうではないだろうか。

 
 たぶんこの思考回路は韓国にも存在していて、以前読んだパク・ミンギュの『カステラ』は、そういった価値観を内面化した若者たちが、深刻な不景気や人生の挫折に直面して、途方にくれるさまがうまく描かれていたと思う。 

カステラ

カステラ

 

  考えたら、韓国の現代小説は、社会の問題と個人の問題をバランスよく連携させるのがほんとうに上手だ。(そういう小説が厳選されて翻訳されている、と考えた方が正しいのかもしれないが)

 さて、岡村靖幸千原ジュニアの対談に興味があったので、連休中に『週刊文春WOMAN』を買ったところ、この『キム・ジヨン』に『カステラ』、そのほか多くの韓国の小説を翻訳している斎藤真理子さんが「韓国フェミニズム文学がわたしたちを虜にする理由」を寄稿していて、『キム・ジヨン』のヒットの理由について分析していた。 

週刊文春WOMAN 2019GW (文春ムック)

週刊文春WOMAN 2019GW (文春ムック)

 

  やはり、『キム・ジヨン』を読むひとはみな、私と同じようにそれまで経験してきたことを振り返るようだ。
 日本でも韓国でも、まったくの他人事として受けとる女性は皆無なのだろう。逆に、自分の親や恋人はもっと理解がなかった、学校や職場はもっとひどかったと思う女性は、日本でも韓国でも少なくないのでは、と想像するが。

 さらに、このなかで斎藤真理子さんが推薦している本が、前に紹介したキム・グミの『あまりにも真昼の恋愛』をはじめ、どれもおもしろそうで、いったいどれから読んだらいいのやらと、うれしい悲鳴をあげたくなるラインナップだった。

 なかでもとくに気になるのは、以前紹介した『アンダー、サンダー、テンダー』もおもしろかったチョン・セランが、50人の人生を描いた群像劇『フィフティ・ピープル』。

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 そして、 韓国と日本の少女の交流を描いた短編などが収められた、チェ・ウニョンの『ショウコの微笑』。これは前に紹介した『殺人者の記憶法』(日本翻訳大賞受賞作ですね)を訳した吉川凪さんが監訳しています。

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

 そして、フェミニズム小説のアンソロジー『ヒョンナムオッパへ』でしょうか。「オッパ」って、たしか「お兄ちゃん」という呼びかけであり、女性が恋人(男)に向けて使う言葉なんですよね。(一度は「オッパ」と呼ばれてみたい、という発言を聞いたことがある) どんな物語なのか……気になる。

 日本翻訳大賞でもたくさん候補にあがっていたし、ほんとまだまだ韓国の小説の勢いが止まらないのはまちがいないようです。

ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集

ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集

 

 

 

 

行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ 『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン 著 三辺 律子 訳)

毎日、だれかのからだで目覚める
毎日、ちがう人生を生きる
毎日、きみに恋してる

 以前、ジョン・グリーンとデイヴィッド・レヴィサンが共作した『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』を紹介しましたが、今度はデイヴィッド・レヴィサン単著の『エヴリデイ』を読みました。 

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

 

  冒頭に引用した帯の句にあるように、この物語の主人公である「A」は、毎日毎日ちがう誰かの身体に入りこむ。

 ある日は、両親とマリファナ好きの兄と暮らすレスリー・ウォンだったり、ある日は、サッカーをしているスカイラー・スミスだったり、またある日は、ロック好きのエイミー・トランだったり、オタク系の優等生ネイサン・ダルドリーだったり。

 入りこんだ人物として一日を過ごし、夜になって眠り、目覚めるとまたちがう誰かの身体に入っているのだ。
 Aにとっては、すべてがその日限り。毎日毎日知らないひとたちと出会ってともに過ごし、次の日はもう会うことがない。それが当たり前だと思っていた。リアノンに出会うまでは…… 

ジャスティンのロッカーからジャスティンの教科書を出そうとすると、うしろのほうに気配を感じた。ふりむくと、女の子が立っていた。感情がぜんぶ透けて見えるような子。ためらいつつ期待し、気おくれしつつ彼が好きでたまらない。いちいち記憶にアクセスしなくても、ジャスティンの彼女だってわかる。

  ある日、ジャスティンの身体に入りこんだAは、ジャスティンの彼女であるリアノンと海へ行ってデートをする。
 
 どうやらふだんのジャスティンは、リアノンにとっていい彼氏ではないらしい。
 一日でいいから、リアノンを幸せにしてあげたいと思うA。いつもとちがって自分を大切にしてくれるジャスティンに、とまどいながらも喜びを隠せないリアノン。
 そして、次の日はまたちがう誰かの身体に入っているとわかっているのに、リアノンに恋してしまうA。ジャスティンの身体にとどまりたい。それだけをただ強く願う。
 

 願いもむなしく、翌日はまたちがう身体に入っているのだけれど、リアノンのことを忘れることができず、ちがう身体でもリアノンに会いに行ってしまう。
 エイミー・トランのときはリアノンの学校に行って、転校するので下見をさせてほしいとリアノンに接近する。ネイサン・ダルドリーのときに、パーティーでリアノンと知りあい、メールを交換することに成功する。つまり、これからは誰の身体に入っても、メールでリアノンと連絡を取り続けることができるのだ。

 と、あらすじからわかるように、なかなかあり得ない話だった。
 これまでも映画『転校生』や大島弓子のマンガなど、他人の身体に乗りうつる物語は読んだことがあるけれど、だいたい生きている(あるいは死につつある)誰かが、何かの拍子で他人の身体に入るものだった。

 だが、この物語は主人公の実体がなく、しかも毎日毎日ちがう誰かの身体に入り、さらに人間と恋におちてしまうのだ。一応、いくつかルールが決められているのだが(宿主は近場に住む16歳限定だとか、日常に破綻をきたさないよう宿主の記憶にアクセスできるとか)、正直なところ、ちょっと設定に無理を感じるところもあった。

 けれども、そんな強引な設定をしてでも、「ひとを好きになるというのはどういうことか」を、作者はこの物語で突きつめて描きたかったのだろう。

(ここからネタバレというか、結末まで触れています)
 

 リアノンの立場で考えてみる。
 もし、自分の好きなひとが、見知らぬ他人の外見になってしまったら、受けいれることができるだろうか? ときには性別も変わり、ときにはすごく太っていたりと、ぜんぜんちがう姿であらわれるのだ。

 「相手の見た目で好きになったわけじゃない」と主張するひとは多いけれど(もちろん、見た目重視のひとも多いが)、ならば、まったくちがう姿でも好きでいられることができるのだろうか? ここ最近は、性別についてもこだわらないというひともある程度いるが、では、男だった恋人が女になってあらわれたら受けいれられるだろうか…?

 やっぱり難しいように感じる。
 では、いったいそのひとの何を好きだったんだろう? 見た目が好きだったのか? 「ぜんぶ」が好きだったのか? 「ぜんぶ」って何? と考えてしまう。

 

 Aの立場で考えてみる。
 リアノンと出会ったAは、どんな姿になってもリアノンに会いに行くことで頭がいっぱいだ。今日目覚めた場所はリアノンから〇時間の距離、とすべてがリアノン基準になってしまう。

 そしてあらゆる嘘をついて、学校をさぼったり車を借りたりして、リアノンのもとへ向かう。♪行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ~とBGMをつけたくなる勢いだ。この気持ちが、ひとを好きになる原点であり、すべてだと思う。 

愛のなせる業ってやつ。世界を書き直したくなる。登場人物を選び、舞台背景を作り、筋書きを支配したくなる。愛する人が正面にすわる。これを可能にするなら、永久に可能にできるなら、なんだってしたいと思う。

  しかし、ひとつの身体にとどまることのない、実体のない自分との関係は不毛なだけだ。自分にはリアノンを幸せにすることはできない。

 もちろん、このAのような事態は実際にはあり得ないけれど、自分の存在が相手にとってプラスにならないという場面は、現実にもちょくちょくあるのではないだろうか。 
 自分が身をひいた方が、相手の視界から消えてしまった方が、相手が幸せになれるのではないか……そんなとき、自分は決断することができるのだろうか? 


 この物語も、まさにAがその決断をしようとしたところで終わり、この先どうなるのか? と思っていたら、実は続編、続々篇がある三部作らしい。続きも気になるので、続編の刊行を楽しみにしたいと思います。

 しかし、現実においても、不誠実な恋人を持つ女子が、自分を大切にしてくれる相手に心を動かされるのはよくあることだが、往々にして、結局そういう女子は不誠実な恋人に戻っていったりもするが……(ベタな偏見ですみませんが)
 

 恋愛以外の要素についても、次々と登場する乗りうつられる高校生たちには、自殺願望のある女の子や、貧困家庭に住む男の子、男の恋人がいる男の子などがいて、アメリカの現実が反映されていて興味深かったので、いろんな方に読んでもらいたい物語でした。

 ちなみに、『傘がない』はもちろん本家もいいのですが、UAヴァージョンもなかなか素敵。あ、タイトルが同じ『エブリデイ』も、♪every day、every night、会いたくて~となんだか符合していますね。

 

 

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