快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

移民の娘、そしてエリート女子として、「わたし」のこじれたアイデンティティ――ウェイク・ワン『ケミストリー』(小竹由美子訳)

  ウェイク・ワン『ケミストリー』(小竹由美子訳)を読みました。 

ケミストリー (新潮クレスト・ブックス)

ケミストリー (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者:ワン,ウェイク
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  中国系アメリカ人として生まれた「わたし」は、両親の期待を背負って博士課程へ進学した。そこでエリックと出会って一緒に暮らしはじめ、ついにはプロポーズされる。
 けれども、エリックについていく決心もできず、かといって勉学に集中することもできない。両親は娘である自分が輝かしい業績をあげることを願っているが、両親のことを考えれば考えるほど、目の前に立ちはだかる現実に足がすくむ…………

 こうやって要約すると、博士課程というエリートコースに進み、さらにエリートであるうえに心優しく、自分を愛してくれるボーイフレンドまで手に入れた主人公に共感できる要素なんて皆無のように思える。それなのに、なぜだか主人公の葛藤や不安が自分のことのように感じられた。

 「親の呪縛」というのはもう散々使い古された表現だが、前に踏み出せない「わたし」を見ていると、どうしても「親の呪縛」という言葉が頭に浮かぶ。
 「わたし」の父親は一念発起して中国からアメリカに渡り、学業と仕事にひたすら励んで身を立てた。母親は薬剤師というキャリアを捨てて父親についていくが、言葉の壁のため、アメリカで自らのキャリアを再び築くことはかなわず、父親と娘を支えることに専念した。
 というと美談のようだが、自分のことで頭がいっぱいの父親と、慣れない国で鬱屈を抱えた母親とのあいだには激しい言い争いが絶えなかったというのも事実だった。

 そんな家庭で育った「わたし」が、アメリカのホームドラマに出てくるような仲良し家庭で育ち(というのは、もちろん「わたし」からの視点に過ぎないのだが)、家族や周囲の人たちに素直に愛情を示すことができるエリックに対して劣等感を抱き、どうしても距離を感じてしまうくだりには胸をうたれた。
 善意に満ちた屈託のない(ように見える)人とのあいだに感じる、絶対に埋められない溝。「わかりみが深い」という最近の言い回しは、こういうときに使うのかと気づいた。(合ってる?)

 就職して田舎に行くエリックについていくか悩む「わたし」の胸には、父親についてアメリカに渡った結果、自らのキャリアや中国での家族や友人たちといったすべてを犠牲にした母親の存在がある。言葉もわからず、友人もいない国で苦労をし続け、不平不満をしょっちゅう口にしていた母親の声が、たとえ離れていても「わたし」の耳に常に響いている。

 この場面では、以前に読んだケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(西山敦子訳)で、夫の転勤にともなってオハイオにやってきた主人公(書き手)の姿も思い出した。田舎に閉じこめられた「私」は「彼の妻」としか見られなくなり、ゼルダやヴィヴィアン(エリオットの妻)にのめりこむようになる。 

だんだんわかってきた、相手のために住む土地を変えることに同意した時点で、もう妻になってしまう。いかに当人どうしが平等なパートナーシップを目指して努力しても。

 

ヒロインズ

ヒロインズ

 

  いつまでたっても英語が上手にならない母親と、そんな母親を下に見るネイティヴの英語話者について主人公が抱く複雑な心情は、ケン・リュウ『紙の動物園』(古沢嘉通訳)や、ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳)でも詳細に描かれていた。「紙の動物園」ではこんなやりとりがある。 

母さんは手を伸ばして、熱を測ろうと、ぼくの額に触れようとした。「ファンシャオ・ラ(熱があるの)?」

ぼくは母さんの手を払いのけた。「熱なんかない。英語を話せってば!」ぼくは怒鳴っていた。 

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
 

 

dokusho-note.hatenablog.com

  また、「紙の動物園」では“ラヴ”と“愛”(中国語)のちがいについて「母さん」が語る場面があるが、『ケミストリー』でも「わたし」はさまざまな言葉について、アメリカと中国での概念や表現のちがいを考察し、エリックのような白人の家庭/社会と自分たちの属する中国系の家庭/社会に照らし合わせている。

 ここまで中国系移民としての「わたし」の葛藤に焦点をあててきたが、『ケミストリー』にはだれでも青春時代に直面する普遍的な悩みも描かれている。

 「わたし」は懸命に努力して博士課程に進学したが、研究とは努力だけで業績をあげられる世界ではないということがわかってきた。いわゆる天才的なひらめき、というようなものが必要となる。
 自分にそんな能力があるのだろうか? 能力がないのなら、いったいどうしたらいいのか? 両親も自分もドクターになるものだと思って生きてきたのに、何者にもなれなかったら、自分という存在の意義はあるのだろうか?

 学問と恋愛に悩み、そのふたつと密接に結びついたアイデンティティが揺らぐ「わたし」の姿から、かなり以前に読んだ、ジェフリー・ユージェニデス『マリッジ・プロット』(佐々田雅子訳)も思い出した。 

  この小説は、アメリカの大学を舞台に、英文学を専攻する主人公マデリンが、レナードとミッチェルという対照的なふたりの男性との三角関係に陥るというストーリーで、鬱で苦しんだり、宗教に救いを求めたりする登場人物たちの「自分探し」と、ジェイン・オースティンの結婚小説を組み合わせた意図がおもしろかったけれど、同作者の『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』ほどは話題にならず、少し残念だった。

 また、移民としての悩みを抱え、学問にも挫折しかける「わたし」というと、重苦しい小説のように思えるかもしれないが、まったくそうではなく、そんな自分を俯瞰して見つめる主人公のユーモラスで淡々とした語り口も、この小説の大きな魅力となっている。
 原書は読んでいないけれど、翻訳文というとどうしても原文より固くなりがちだったりするのに、どんな状況でもけっして深刻ぶらない、飄々とした文体が貫かれていることにも感じ入った。

 ビートルズ好きのエリックが、「わたし」に“ディア・プルーデンス”を聞かせるくだりがとくに心に残った。
 エリートコースの人生で得たものをいったん捨て、傍から見ると八方ふさがりのような境遇に自ら飛びこむ「わたし」を見ていると、一緒に“ディア・プルーデンス”に耳を傾けたくなった。 

Dear Prudence, open up your eyes

Dear Prudence, see the sunny skies

The wind is low, the birds will sing

That you are part of everything……

 www.youtube.com

差別する側の「誤った決断や行動、事後の後悔」を描いた 『兄の名は、ジェシカ』(ジョン・ボイン著 原田勝訳)

 ジョン・ボイン『兄の名は、ジェシカ』を読みました。
 以前に紹介した二作『縞模様のパジャマの少年』『ヒトラーと暮らした少年』は、どちらもナチスドイツの支配下にあったヨーロッパを描いていたが、今作は現代のイギリスが舞台となっている。 

兄の名は、ジェシカ (アニノナハジェシカ)

兄の名は、ジェシカ (アニノナハジェシカ)

 

 

dokusho-note.hatenablog.com

 主人公である語り手の「ぼく」は14歳で、4歳年上の兄ジェイソン、政治家の母親、母親の秘書を務める父親と暮らしている。
 難読症のため読み書きが苦手なうえに、スポーツも得意ではない「ぼく」と異なり、ジェイソンはプロを目指すようスカウトされるほどサッカーが得意な学校の人気者で、忙しい両親に変わってずっと「ぼく」の面倒をみてくれていた。ジェイソンはヒーローそのものだった。

 ところが、最近ジェイソンのようすがおかしい。「ぼく」や両親と距離を置くようになり、部屋にこもる時間が増えた。一度、部屋をのぞくと泣いているときがあった。しかも、どういうわけかブロンドの髪を伸ばしはじめ、変な段カットにしている……

 そしてある日、家族全員に話があるとジェイソンが切り出す。
 不安を感じた「ぼく」は、「ジェイソンは世界で一番の兄さんなんだから、ね」と口にして、わざと子どもっぽく甘えてみせる。ジェイソンは黙りこんだあと、おまえの兄さんじゃないと否定する。 

ぼくはとまどったまま、ジェイソンの顔をじっと見ながら、ききかえした。「どういう意味?」

「言ったとおりさ。おまえの兄さんじゃない。ほんとうは、姉さんなんだと思う」

  ジェイソンの性自認は女性であり、つまり、トランスジェンダーだと家族に告白する。
 現代はゲイやレズビアントランスジェンダーをカミングアウトしている人も多く、昔にくらべると偏見も少なくなっていると思う。

 けれども、いざ自分の血縁者に告白されると戸惑ってしまう人が大半ではないだろうか。「ぼく」や両親も例にもれず、一家の星であったジェイソンの告白を受けとめられない。聞かなかったことにしてしまいたい。母親は二度とそんなことを口にするなと言い、父親は電気ショック療法で治るのではないかと考える。

 しかし、ジェイソンの見かけはどんどんと女らしくなり、「ぼく」は学校で散々笑い者にされ、“宿敵”のいじめっ子たちからは変態野郎という罵声を浴びせられる。それもこれもぜんぶジェイソンのせいだと恨むようになり、ある行動に出る……

 この本を読み終えて、あらためてジョン・ボインが描く登場人物の設定や配置の絶妙さに感心した。

 『縞模様のパジャマの少年』の主人公である少年の父親はナチスの高官であり、少年はフェンスで囲まれた建物(収容所)にはどんな人たちが入っているのか、内部で何が行われているのか、まったく知らない。その無知と鈍感さに読んでいる側はもどかしい思いを抱く。

 『ヒトラーと暮らした少年』では、主人公の少年の悲しい生い立ちに同情した読者も、そのあと少年がヒトラーにすっかり感化されていくさまに困惑と苛立ち、そして悲しみを覚える。

 この『兄の名は、ジェシカ』においても、ジェイソンを受けとめて応援する人が周囲にあらわれても、なかなかジェイソンの選択を認めようとしない「ぼく」や両親の無理解ぶりに胸が痛くなる。

 先日、訳者の原田勝さんによるセミナー「訳した本がジャンルを作る──海外児童文学・YA文学に描かれる戦争と差別」で、下記の視点が挙げられていた。 

視点(2)文学による疑似体験

*侵略される側・差別される側の「痛み」

*侵略する側・差別する側の「誤った決断や行動、事後の後悔」

*全体の枠組みや環境の中で、冷静に問題を考える機会を提供

*単なる情報ではなく、物語として提示する意義や力(まず文学として質が高いこと)

*基本的に一人で行なう営みである読書を通じて、問題を深く認識する可能性。それをサポートするための、翻訳の工夫(読みやすさ、訳注、解説)

  ジョン・ボインの一連の作品は、〈侵略する側・差別する側の「誤った決断や行動、事後の後悔」〉を描くことで、〈侵略される側・差別される側の「痛み」〉が読者に強く伝わり、当事者であるというのはどういうことか、じっくりと考えさせられる構成になっている。

 また、最後に添えられた作者あとがきで、ジョン・ボインは「トランスジェンダーであることがどういうことか、わたしは身をもって知っているわけではありません」と断りつつ、自らがゲイだと意識しはじめたときの気持ちを綴り、まわりの人とちがうということがどれだけ恐ろしいか、切実に語っている。

迫害されている人たちのために立ち上がらなければ、結局それは、わたしたちが迫害する側に回ることになります。いじめられている人たちによりそわなければ、わたしたちはいじめの共犯者です。

 この小説は両親の描写もかなり興味深い。母親は首相の座を狙えるほどの政治家であり、そのサポート役を父親が務めているが、両親が抱いている価値観は古臭く、ジェイソンを認めようとしない。

 日本でも、自らは旧姓で働きながら選択的夫婦別姓に反対する保守的な女性政治家が存在するし、イギリスにはなんといってもサッチャーという偉大なる先達がいたことを思い出すと、この人物造形にも説得力を感じる。

 母親に向かって「EU離脱に尽力くだすってありがとう」と声をかける年輩の女性が、「わかってちょうだい、わたしくらい偏見のない人間はいないわ。車には、エルトン・ジョンのヒット曲集のCDだって積んでるし」と言ってのける場面など、至るところでミュージシャンをネタにしたジョークが出てくるのには笑えた。

 「ぼく」が一時はまっていたエド・シーランが再三ネタになっていたり、両親がジェイソンを連れていく精神科医がコールドプレイのクリス・マーティンそっくりだったり、そしてなんといっても、「三十五歳を過ぎたら絶対にやっちゃいけない十のこと」のひとつに、「オアシスみたいな、もう何年も前にはやったバンドの話をすること」があるのには、いつの間に見られていたのか? と思った。
(けど、こんなことを言うセンスは14歳の「ぼく」のものではなく、作者ジョン・ボインの感覚だと思うが)

 そう、LGBT性自認を取り扱いつつも、筆致は軽妙で笑える要素も多いので、差別や社会問題を描いた作品は深刻で難しそう……という印象を持っている方や、『縞模様のパジャマの少年』がつらかったという方も、この作品ならすっと物語に入りこめると思います。

 ここからジョン・ボインのほかの作品や、吃音に悩む少年を描いた『ペーパーボーイ』、その続編にあたる『コピーボーイ』など、原田勝さんが訳されたほかの作品を読み進めていくのはどうでしょうか? 

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

 

 

コピーボーイ (STAMP BOOKS)

コピーボーイ (STAMP BOOKS)

 

 

 

 

孤独な独学から生み出された怪物の正体は? 『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー著 田内志文訳)※訳書多数あり

 “フランケンシュタイン”をご存じでしょうか?

 と聞くと、知らないと答える人はほとんどいないだろう。しかし、『フランケンシュタイン』を実際に読んだことがある人は? と聞くと、その数は格段に減るのではないだろうか。そもそも、“フランケンシュタイン”が怪物を作った若き青年の名前であることを知らない人も多いのかもしれない。
 というわけで、今回の読書会の課題書に選んでみました。 

新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)

新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)

 

  この小説は、ウォルトンなる人物が姉のマーガレットへ送った手紙からはじまる。怪物もフランケンシュタインもまったく出てこない。
 何者? と思って読み進めると、どうやらこのウォルトンは北極探検に向かっているらしいと判明する。手紙の日付は17**年12月11日となっている。この時代、北極は未開の地であり、人類の大いなる一歩を刻むべく、決死の覚悟で探検に出発したのだ。 

人跡未踏の世界の眺望にこの燃えあがる探究欲を満たされ、人として最初の足跡をその大地に刻むのです。

  ところが、偉業を成し遂げようと意気揚々と探検に出たにもかかわらず、二通目の手紙では「これまで一度も叶えられずに来た念願がひとつあり」、つらくてたまらないと言い出す。いったい何かと思うと、こんな弱音を吐く。 

マーガレット、僕には友がありません。こうしていくら成功への熱狂に身を焦がそうとも、その歓喜を分かち合う友がいないのです。

  さっきまでの威勢はどうしたのか、未踏の地に「人として最初の足跡」を刻もうとしているのに、淋しいとか友だちがいないとか、中学生のようなことを言っている場合じゃないだろうと説教したくなる。けれども、ウォルトンは「友が欲しくてなりません」と言いつのり、さらに以下のように告白する。

 しかしそれにも増して不幸なのは、僕が独学の徒であることです。

  ウォルトンは叔父さんの書斎で本を読みふけって知識を身につけたため、28歳ではあるが15歳の生徒より無学だと告白する。そのため、自分は白日夢を大きく膨らませてきたが、全体像を把握する力はないと認識し、独学ゆえの視野狭窄に陥りつつある危険性を自覚している。

 そうこうしているうちに四通目の手紙では、氷原をソリに乗って走る怪物めいた巨人の姿を見かけ、船員一同が驚愕したと綴られる。
 翌日、またもソリに乗った謎の人影を発見したので船に乗せて救助したところ、ヨーロッパ人だと判明する。どうしてこんなところまでやってきたのか経緯を尋ねているうちに、ウォルトンはその男の聡明さや洗練された精神に心打たれ、これこそが求めていた友だ! と、孤独な人間にありがちな勢いで思いこみ、探検に対する自らの思いを熱弁する。だが、ヨーロッパ人は同意するどころか、たちまちのうちに顔を曇らせ、嗚咽を漏らす。 

なんと哀れなお方だ! 私と同じ狂気をお持ちでいなさる! あなたもあの美酒に心を毒され、奪われてしまったというのか!

  ヨーロッパ人は、「私をこのような身に貶めたのと同じ危険に身を晒している」あなたに何らかの教訓を授けることができればと述べて、自らの数奇な人生を語りはじめる……

  つまり、このヨーロッパ人こそがヴィクター・フランケンシュタインであり、いかにして怪物を生み出し、どういう経緯で氷に閉ざされた世界まで来てしまったのか、ウォルトンに対して語るという構造になっている。

 ヴィクターは「私のように幸福な少年時代を過ごした者など、他にはおよそ見当たらないことでしょう」と自ら言うように、両親の愛を一身に受け、従姉妹(血は繋がっていないが)のエリザベトにふたりの弟、さらに親友アンリ・クレルヴァルに囲まれて、何ひとつ不自由することのない少年時代を送る。成長するにつれて自然科学への傾倒を深め、まるで何かに取りつかれたかのように、尋常ならざる熱意で勉学にのめりこむようになる。

 この物語の舞台となった18世紀は、ニュートンがさまざまな法則を発見した17世紀末に続いて自然科学が飛躍的に発展した時代であった。
 しかし、ヴィクターが最初に魅了されたのは、かつて悪魔召喚や不老不死を追及した時代遅れの怪しげな科学であった。ヴィクターの目には、ニュートン以降の近代科学は味気ないものに映った。いつの時代も、科学的な根拠のないオカルトめいたものに若者は魅かれてしまうのかもしれない。

 けれども幸運なことに、ヴィクターは尊敬できる指導者と巡りあった。大学で出会ったヴァルトマン教授はそれまでの周囲の人々とは異なり、ヴィクターが心酔する一昔前の科学者たちをペテン師だと無下に切り捨てずに、そういう人々の尽きせぬ情熱こそが近代科学が発展する礎となったと助言した。
 こうして、ヴィクターは初心を失うことなく近代科学の研究に没頭し、ついには生命の神秘を解き明かし、無生物から生物を作り出すという人類の夢を叶えてみせたのだった。

 と、ここまではすばらしい成功譚であるが、ご存じのように、ヴィクターが生み出したものは醜くおぞましい怪物であった。創造者であるヴィクターもあれほどの情熱を注いだにもかかわらず、「自ら生み出した怪物の姿に耐えかね」部屋を飛び出す始末であった。 

ああ! あのおぞましい顔を見て平気な人間などこの世におりましょうか!

  と叫ぶくだりに至っては、自分で作っといて何言うてんねんと呆れてしまう。
 あとでヴィクターは飛び出した部屋に恐る恐る戻り、怪物の姿が消えているのを悟ると、それ以上深く考えようとせず、ああ僕ちゃん怖かったとばかりに寝付いてしまい、親友アンリに介抱させるのであった。
 これがフランケンシュタイン一家の悲劇の幕開けであった

 ヴィクターの部屋を出た怪物の身にふりかかった運命については、物語の中盤で怪物自らが語る。この物語は、ウォルトン、ヴィクター、怪物の三人がそれぞれ語り手になるという入れ子の構造をとっている。
 そう言うと、あれ? 怪物が物語なんて語れるの? と疑問を感じるかもしれないが、さすが天才科学者ヴィクターから生み出されただけあって、怪物も驚異的な学習能力を有しているのであった。

 怪物は森を彷徨い、雨風や飢えに散々悩まされながら、ひとつの小屋を見つける。その隣には、老人と若い男と娘からなる貧しい一家が住んでいた。
 怪物がその小屋に住みついてしばらく経つと、隣の一家にアラビア人の娘が訪ねてくる。どうやら若い男の恋人のようだが、アラビア娘は一家と会話ができないため、この土地の言葉を学びはじめる。

 怪物もその講義を盗み聞くことによって、言葉を習得する。それもカタコト言葉を覚えるといったレベルではなく、あっという間に怪物は『失楽園』や『プルターク英雄伝』『若きウェルテルの悩み』を読破するようになるのだった。


 知識を得た怪物は自我に目覚め、自分はいったい何者なのかと考えるようになる。どうして森の片隅で孤独で惨めな暮らしを余儀なくされているのか? 自分は何のために生を受けたのか? と悩みはじめる。
 貧しくとも愛し合っている隣の一家への羨望の念がつのる。自分も親切にされたい、愛されたいと胸を焦がす。ある日ついに意を決して、一家の老人に話しかけてみるが…… 

忌むべき、忌むべき創造主よ! なぜ俺は生き長らえたのだ? なぜあの瞬間、お前が気まぐれに与えた命の火を俺は消してしまわなかったのだ?

  こうやって見ていくと、冒頭に出てきたウォルトンがヴィクターと怪物それぞれの葛藤をあわせ持っていたことに気づく。

 未知の世界を追求する情熱、孤独に苛まれる心、独学の危うさ……信頼できる指導者に巡りあったヴィクターとちがい、独学で知識を得た怪物は、頭でっかちのまま道を踏み外して暴走する。同じく独学で世界を理解したウォルトンは、自らを正してくれる友を激しく求める。
 なんとなく読んでいると、ウォルトンのパート要る? と感じてしまうが、この物語のテーマが冒頭で凝縮されている構造の巧みさに感心させられる。

 そして、この怪物は作者メアリー・シェリー自身のようにも思えてくる。
 メアリーの生涯は、映画『メアリーの総て』にわかりやすくまとめられているが、父親は自由主義を唱えたアナーキーな思想家ウィリアム・ゴドウィンであり、母親は急進的フェミニストのメアリー・ウルストンクラフトであった。母親はメアリーを産んですぐに亡くなり、父親と継母のもとで育てられる。

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 この当時の女性は正式な教育を得る場がなく、メアリーは父親の周囲で飛び交う議論を耳で聞いて学んだと考えられる。メアリーの運命を変えた男、詩人シェリーと出会ったのも父親のサロンであった。シェリーと駆け落ちしたあとは、シェリーと親友バイロンのあいだで交わされる文学談義が最大の教師となったのだろう。
 当時の最先端の知識を耳から得たメアリーだが、女である自分はウォルトンのように、「15歳の生徒より無学だ」というコンプレックスがあったのだろうか。

 失意と孤独のなかで自我と知識に目覚めた怪物が、フランケンシュタイン一家に復讐すべく悪行のかぎりを尽くすさまはおぞましいのはたしかだが、一方でどことなく痛快でもある。怪物である自分を生み出し、そしてうち捨てたヴィクターへの強烈な愛憎は、単なる怪奇話にはおさまらない凄みがある。

 メアリーのなかでは、自分に生と知識を授けた父親ゴドウィンがヴィクターであり、どうして自分を見捨てたのかという怪物の呪詛は、妻子あるシェリーと出奔したメアリーを認めなかった父親に対する思いなのかもしれない。
 あるいは、怪物が手に負えない厄介な存在だと知るやいなやあわてて逃げ出すヴィクターの姿に、妊娠中の前妻を捨て、彼女が自殺するまで放っておいたシェリーが投影されているのかもしれない。 

お前がどれほど絶望しようと、俺の苦しみは遥かにそれを凌ぐのだ。悔恨の棘は延々と、死が永遠に閉ざすまで俺の傷を疼かせ続けて止まないのだからな。

  物語の最後はまた船上のウォルトンの語りに戻り、この小説全体の大きなテーマ、自然科学や探検といった真理の追求と、それに伴う倫理の問題が再び問われる。

 このまま北極へ向かうのならば、乗組員全員の命が危険にさらされるという状況に陥ったのだ。危険を冒してまでも突き進むべきか? 
 危険を冒して怪物を作ったヴィクターは「漢になりたまえ!」と、なんとしても北極を目指すよう乗組員たちに演説する。さて、ウォルトンの選択は?


 読書会でこの最後の選択について意見を聞いたところ、引き返す派が多数だった。私自身も引き返す方を選んだ。やはり命あっての物種ではないか……と思ってしまう。
 しかし、自分や周囲の人間の命を危険にさらして真理を追求した人物がいたからこそ、これまで科学や医学が発展を遂げてきたのは事実であり、科学と倫理の関係は永遠に答えの出ない問いのように感じられる。

 関連書については、まずはH・G・ウェルズ『モロー博士の島』が挙がった。
 『フランケンシュタイン』は、錬金術のような迷信めいた科学と近代科学との “あいのこ” とも言える作品であるが、ウェルズの諸作品はそれ以降の近代科学の発展を如実に反映している。 

   ウェルズの時代は、科学の発展によって世界がよくなるという希望的観測がまだ生きていたが、『フランケンシュタイン』が予言していたかのように、人類は核兵器という「手に負えない怪物」を作り出し、科学と倫理という問題がクローズアップされるようになる。
 ここで頭に浮かぶのが、原子爆弾の開発者の一家が登場するカート・ヴォネガット『猫のゆりかご』である。 

猫のゆりかご

猫のゆりかご

 

  映画『2001年宇宙の旅』を想起した人も多く、フィクションのなかでもSFというジャンルは、人類をとりまく環境の変化にきわめて敏感に反応してきたが、現在のコロナ禍において、どういう物語が生まれるのだろうか? と全員で語り合った。 

 そのほか、 父親に殺された母親の体の一部を自らの身体に埋めこまれた子どもたちの人生を描いた、エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』も話題にのぼった。考えたら、船上での語りではじまるという構造も引き継がれている。 

  読書会では、ルッキズムという観点からも考察した。どうしてこれほど怪物が忌み嫌われるのかというと、ただひたすら醜いからである。
 そこで、ジャック・ロンドンの“Moon-Face”や、サリンジャーの「笑い男」などの興味深い短編を参考図書として挙げてくれた方もいた。 

ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)
 

 だれもが名前を知っているものの、知名度のわりにはあまり読まれていない『フランケンシュタイン』。
 今回あらためて読んでみると、現代にも通じる多くのテーマを含んだ物語であり、それらのテーマを効果的に伝える語りの構造にも工夫がされていることがわかった。
 興味を持った方はぜひ一度読んでみて、ウォルトン、ヴィクター、怪物の三人の語りのなかで、どれに一番共感できるかを考えてみてはいかがでしょうか。 

完璧な書き出しではじまる完璧な心理サスペンス『ロウフィールド家の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾 芙佐訳)

ユーニス・バーチマンがカヴァデイル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。

  英国女性ミステリーの女王と呼ばれたルース・レンデルが1977年に発表した、『ロウフィールド家の惨劇』の冒頭である。

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 この小説の謎は、〈だれが殺人を犯したのか〉ということではなく、〈どのように殺人に至ったのか〉ということだ。この文に続いて、ユーニス・バーチマンにはそれ以上の動機もなく、正気を失っていたわけでもないと語られる。
 ただ文盲であるがゆえに、一家を惨殺した。いったいどういう経緯なのか? 

  なぜ文盲だったかというと、特別な理由があるわけではない。
 小学校に入ってまもないうちに第二次世界大戦が勃発し、田舎に疎開したりロンドンに戻ったりと転々として学校にろくに通えず、読み書きができないまま大きくなってしまったのだ。そんなユーニスを放置していたことからもわかるように、両親は物事を深く考える性分ではなく、娘が家事を手伝い、自分たちの面倒をみてくれたらそれでよしとしていた。

 ユーニスは大好きなチョコレートを食べて、掃除や縫いものをして日々を過ごすことに満足していた。しかし、時折暗い衝動に突き動かされ、たまたま知った周囲の人々の秘密をネタにして金をせびるのだった。ゆすりや恐喝という言葉も知らない彼女にとって、それは「独創的」な遊びだった。そして両親が相次いで死に、ユーニスは四十を過ぎてから働くようになった。

 

 ユーニスは常軌を逸しているわけではなく、先にも書いたように、いたって正気である。だからこそ、文字が読めないことを最大の恥と考え、だれにも悟られまいとあの手この手で危機を乗り越える。具体的には、仕事探しの際には手紙の代筆を頼み、仕事中に何かを読む必要が生じたら極端に目が悪いふりをする。
 しかし、どれだけ手を尽くしても、文字というものから逃げることはできない。文字のある空間は――つまり、ほぼすべての世界であるが――ユーニスに恐怖を与える。 

彼女は印刷された文字が恐ろしかった。彼女にとっては特別の脅威だった。それに近づかぬこと、避けること、それを彼女に見せようとする人間から遠ざかること。それを忌避する習慣が深くしみこんでいた。

  だが皮肉なことに、ユーニスが働くことになったカヴァデイル家は良識ある知識人の家庭の典型であり、いたるところに文字があふれていた。
 しかも、あふれていたのは文字だけではない。善意もあり余っていた。 

カヴァデイル家の人たちはお節介やきだった。彼らは最高の善意、すなわち他人を幸せにしてあげようという善意にもとづいてお節介をやいた。

  妻のジャクリーンは見栄っぱりでスノビッシュであるが、夫のジョージは礼儀正しく親切な紳士であった。
 大学に通う娘のミリンダは、家族のだれよりも善意にあふれ、自由奔放で素直な心の持ち主だった。カヴァデイル家がカラーテレビを購入するので、古い白黒テレビはお手伝いに使わせるという計画を耳にすると、「なんてケチ!」「すっごく非民主的でファシスト的」と、怒りをあらわにするほどだった。
 血がつながらない弟のジャイルズは、ミリンダに憧れつつも内向的な性格のためどうすることもできず、壁に貼ったサミュエル・バトラーなどの格言を見つめて日々を過ごしていた。

 カヴァデイル家のあちこちに置かれていた書物も、ジャイルズの部屋に貼られた“紙きれ”も、ユーニスにとっては恐ろしかった。こんな高い教養とあふれる善意を持つカヴァデイル家の面々に、読み書きができないことを知られてしまった日には…… 

 そもそも、どうして読み書きができないことが恥なのか? そんなの恥かしいことでもなんでもないじゃないか。できないものはできないと正直に告白して、いまからでも勉強すればいい。

 そう思う人もいるかもしれない。きっとミリンダのように愛されてすくすく育ち、ひけめやコンプレックスを心の底から感じたことがないのだろう。純粋な善意と純粋な悪意、より恐ろしいのはどちらだろうか?

 傍から見ると、世の中や他人にほとんど興味がないのに、恥の概念だけはふんだんに持ちあわしているユーニスが奇異に思えるかもしれないが、だれにも肯定されないまま狭い世界で生きていると、自分の凝り固まった価値観から外れているものは恥となる。

 恥というのは、他人の秘密をネタにして恐喝することを楽しんできたユーニスにとって、禁断の甘い果実でもあった。
 ところが、このカヴァデイル家の面々と出会い、開放的な心と善意をあわせ持つミリンダによって恥の概念をひっくり返され、ユーニスの世界は崩壊する。

 しかしそれだけなら、ユーニスがカヴァデイル家を去るだけで終わったかもしれない。常軌を逸した事件が起きる背景には、常軌を逸した要素があった。ユーニスの親友となったジョーン・スミスだ。

 ジョーンは裕福な家に生まれ、愛され、慈しまれて育ってきたにもかかわらず、これという理由もなく出奔して身を持ち崩し、放蕩生活のはてに信仰に目覚める。田舎の雑貨店店主の奥さんにおさまるが、何にも興味を持たないユーニスと対照的に、ありとあらゆることに尋常ならざる好奇心を燃やし、カヴァデイル家の新しい家政婦となったユーニスに接近する。
 育ちも性格もまったく異なるふたりだが、互いの暗い衝動がひきつけ合ったのか、急速に親交を深めていく。ジョーンの理由なき狂気が悲劇の推進力となる。

 それにしても、これだけインパクトのある書き出しならば、芸人用語でいう「出オチ」になってしまい、以降の展開は尻すぼみになってしまうのではないかと思うが、この小説は結末がわかっているにもかかわらず、読者の興味を最後まで持続させることに成功している。
 やはり、それが前回で取りあげたミネット・ウォルターズや、ジャネット・ウィンターソンなどの人気作家がリスペクトを表明するルース・レンデルの力量なのだろう。 


 小説の書き出しは、「これからいったい何が起きるんだろう?」と読者の興味をかきたてるものでなければならない。後知恵かもしれないが、すぐれた小説は書き出しからすぐれているように思う。手もとにある本をいくつか見てみると――

 日本で一番有名な書き出し「吾輩は猫である。名前はまだ無い」は、無名の猫が語り手であることを宣言している。世界で一番有名なのはカフカの「変身」かもしれないが、これも書き出しで虫になったことを宣言している。

 舞台設定を示す書き出しも多い。「こいさん、頼むわ」は、関西の良家が舞台となっていることがわかる(念のため、『細雪』の冒頭です)。では、この書き出しは? 

悦子はその日、阪急百貨店で半毛の靴下を二足買った。

  こちらは三島由紀夫の『愛の渇き』である。そもそも、どうして三島が豊中市の岡町を舞台にしたのか謎だったが、Wikipediaによると叔母の嫁ぎ先だったらしい。(しかし谷崎と異なり、関西弁はほとんど目につかない)
 悦子という女の「幸福の欲求」について書かれていて(新潮文庫吉田健一の解説によると)、ミステリーではないが、ルース・レンデルのような心理サスペンスが好きな人には楽しめる小説だと思う。 

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

 

  買いものパターンには、こんなものもある。 

父さんが熊を買ったその夏、ぼくたちはまだ誰も生まれていなかった――種さえも宿されていなかった。

  熊と家族の物語というと、そう、ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』だ。やはり冒頭には物語の要となるものを持ってくることが多いように思える。 

 ある夏の夜、庭に面した窓をすべて開け放った大きな部屋で、彼らは屎尿溜めについて話していた。

  屎尿溜め……いま読んでいるヴァージニア・ウルフ『幕間』の冒頭である。1939年を舞台にした小説で、この「屎尿溜め」は、「戦時体制のもと、生活インフラが後回しにされていることの象徴」と、訳者解説で説明されている。

幕間 (平凡社ライブラリー)

幕間 (平凡社ライブラリー)

 

  嗅覚や五感に訴えるパターンというと、こういうものもある。 

匂いって何だろう? 

私は近ごろ人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。

  なんだか可愛らしい書き出しだ。ファンタジーのような……と思いきや、坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」である。ある意味、ファンタジーかもしれないが。これも戦争が背景になっているので、戦時というのは五感が研ぎ澄まされるのかもしれない。 

白痴 青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

白痴 青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

 

  さて、現代作家によるもっともインパクトのある書き出しといえば、やはりこれではないだろうか。 

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

  デビュー作の書き出しでこんなものを持ってくるとは、さすがというか……「出オチ」にもハッタリにもならずに現在に至っているのは、あらためて言うまでもありません。 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

  自分もインパクトのある書き出しを思いついた! 書き出しだけだけど、という方には、デイリーポータルのサイト「書き出し小説大賞」をオススメします。よくこれだけ思いつくものだと、つくづく感心する。

dailyportalz.jp

 

 『ロウフィールド館の惨劇』に戻ると、この物語は「完璧な絶望」にかぎりなく近く、あたたかい愛情に包まれていた〈ロウフィールド館〉は、「破壊、絶望、狂気……」を象徴する〈荒涼館〉(小説内でもディケンズが引用されている)となる。
 最後にユーニスを待ち受けていた罰とは? ぜひ読んでたしかめてください。

 

※さて、私が世話人を務めている大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン第2回)を、11月8日(日)15時~に開催します。課題書は『フランケンシュタイン』(どの訳書でも可)です。
 ご興味がある方は、osakamystery@gmail.com にご連絡ください。
   あるいは、私のツイッター経由でもなんでも結構です。怪物はいかに生み出されたのか……? 楽しく語り合いましょう!

 

 

ミネット・ウォルターズ『カメレオンの影』(成川裕子訳)オンライン読書会報告&心理サスペンスのブックガイド

 さて、9月26日(土)に第1回オンライン読書会を開催しました。課題書は、今年の4月に出版された、ミネット・ウォルターズの新作『カメレオンの影』です。 

   ミネット・ウォルターズについては前回も少し紹介したように、1992年に『氷の家』でデビューし、第2作目の『女彫刻師』では、母親と妹を殺して切り刻んだ殺人犯と疑われるオリーヴを描いて話題を呼び、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞長篇賞などを受賞した。以降の作品もCWAゴールド・ダガー賞に輝くなどの高い評価を得て、〈現代英国ミステリの女王〉と呼ばれている。

 2007年にイギリスで出版された『カメレオンの影』は、2006年9月29日付の新聞記事からはじまる。
 元国防省所属の文官だった男が南ロンドンの自宅で殺されているのが発見された。二週間前にタクシー運転手の男が殺された事件との関連がほのめかされている。これらの殺害事件について、警察はゲイ・コミュニティーの協力を取りつけているとも記されている。

 その八週間後、チャ―ルズ・アクランドが昏睡から目覚めるところから、物語が展開する。26歳のアクランドは中尉としてイラク戦争に出兵し、爆弾によって顔の左半分を破壊されたのだ。イラクで過ごした八週間の記憶も失われてしまった。

 軍ではみんなから信頼されていたというアクランドだが、意識を取り戻してからは医者や両親にも心を開かず、ときに粗暴なふるまいすらもみせる。
 イラクで心の傷を負ったのだろうと精神科医ロバート・ウィリスがカウンセリングを試みるが、アクランドは感情のコントロールができず、とくに女性に対して激しい嫌悪を示す。ときには看護師の言葉に逆上し、また母親の腕をねじりあげることもあった。

 その原因を探ろうとするウィリス医師のもとへ、アクランドの元婚約者のジェンからメールが届く。そのメールには、アクランドがイラクへ発つ前にジェンに対してあることを行い、そのせいで婚約を破棄したと書かれていた。そうしてある日、ジェンが病院に姿をみせるが、アクランドはジェンを絞め殺そうとする……

 心の傷を抱えたアクランドのストーリーと連続殺人事件の捜査が交互に語られ、ゲイ・コミュニティーに属していた男たちを次々に殺した犯人はアクランドなのか? というのが物語の主軸となる。

  タイトル「カメレオンの影」は、ジェンのメールから取られている。 

チャーリーはカメレオンです。彼は相手によって見せる姿を変えます。連隊の仲間には、男の中の男。わたしに対しては、色男。両親には、口を閉ざし、そこにはいないかのようにふるまう。

  「カメレオン」というのは、この小説の、というよりミネット・ウォルターズの作品すべてのキーワードのひとつと言える。
 ウォルターズ作品では、頻繁に登場人物が「見せる姿」を変えていく。暴力の被害者と思われていた人間が、加害者であったことが判明する。度々被害者と加害者がくるりと入れ替わる。

 『氷の家』のフィービは、暴力の被害者であったのか、それとも殺人の加害者であったのか? 『女彫刻家』のオリーヴは、ほんとうに母親と妹を殺害したのか? それともだれかに陥れられたのか?

 初期の作品では、家庭内での暴力や軋轢によって損なわれる人々に焦点を当てていたが、中期以降の作品では、群集心理や差別意識が大衆の暴力性を煽るさまを描くようになり、さらに前作の『悪魔の羽根』では、人間の加虐性がむき出しになる戦争という要素が加わった。今作『カメレオンの影』でも、イラク戦争の被害者であるアクランドが、殺人の容疑者(加害者)なのかという嫌疑をかけられる。

 損なわれた人間による被害と加害の連鎖をどうやって止めることができるのか? 

 この小説で鍵を握るのは、ドクター・ジョンソンである。アクランドが怒りを爆発させ、レイシズムと言えるほどの暴挙に出たときに居合わせたのが縁となり、アクランドの保護者のような役割を担う。

 ジャクソンはパートナーのデイジーと暮らしていて、アクランドの言葉を借りると「日に25回男性ホルモンを射っているように見える筋骨隆々の大女」である。女性に拒否反応を示すアクランドもジャクソンと行動をともにするようになってから、人を信頼するという気持ちを取り戻していく。 

ジャクソンは内心では彼に同情していた。親としてのロールモデルのうち、優しい方に敬意を抱けないとしたら、彼のようになるのもわかる気がする。もしかしたら、彼の母親との問題は、彼女の強さへの混乱した賞賛の念からきているのではないかと思った。

  ジャクソンはアクランドについての理解を深めていく。支配的な母親との関係で植えつけられてしまった強い女性への「混乱した賞賛の念」から、ジェンにも魅かれるようになり、そして悲劇につながったのだろうか……?

 さて、読書会はネタバレありきで話しているので詳細に書けないが、アクランドをはじめとする登場人物の繊細な心理描写に感心したという声が多かった。
 また、登場場面が多くない人物についても、暮らしぶりや家族との関係といった背景を漏らさず描いているので、しっかりと性格が把握できたという意見もあった。

 その一方で、ミステリーとしては証拠の出し方に疑問もあがった。さすがにちょっとわかりにく過ぎるのではないか、と。たしかに、ミステリーなのだからミスリードを意図しているのだろうが、どこまでがミスリードで、どこまでがアンフェアなのかというと難しい。ウォルターズ作品は犯人当てというより、そこに至るまでの登場人物の心理の揺らぎが読みどころなのだろうとは思うけれども。 
 

 また、参加者のみなさまが挙げていただいた「ウォルターズ作品を好きな人にオススメしたい作品」(もしくはその逆)がたいへん充実していたので、あわせて紹介したいと思います。
※ちなみに、以下の紹介文は、みなさまのお言葉を参考にしながら、私が(勝手に)書いたものです。

◎シーラッハ『コリーニ事件』(酒寄 進一訳)(映画もあわせてオススメ) 

  『犯罪』『罪悪』といった短編小説でドイツミステリーの新境地を開いたシーラッハによる長編小説。シーラッハの短編を読むと、短いながらもその奥行きに感銘を受け、いったい何が正義なのか? と考えさせられるが、長編では人間や社会のさらに深い面に切りこんでいる。推薦の言によると、今年公開された映画もかなり見ごたえがあるらしく、ぜひ見てみたいと思った。

◎キャロル・オコンネル『マロリーの神託』(石川順子訳) 

  完璧な美貌と頭脳を兼ね備え、けれども人間らしい心を失った、まるでAIのような美女マロリーが犯罪の捜査にあたる人気シリーズの第1作目。強烈なマロリーのキャラクターに心魅かれる。

 ◎ベリンダ・バウアー『ブラックランズ』(杉本葉子訳) 

ブラックランズ (小学館文庫)

ブラックランズ (小学館文庫)

 

  英国南西部で起きた猟奇的な児童殺人事件を描いた心理ミステリー。猟奇的な児童殺人事件を扱う作品はさほどめずらしくないが、遺族のひとりである12歳の少年が事件解決に乗り出すというところが斬新。

 

桐野夏生『柔らかな頬』 

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 上 (文春文庫)

 

  やはりウォルターズ作品を想起させる日本の作家と言えば、桐野さんが筆頭ではないでしょうか。幼い娘が行方不明になり、母親である主人公は嘆き悲しむが、実はだれにも言えない秘密を抱えていた……直木賞を受賞したミステリー。
 いまさら言うまでもないけれど、工場でパートする主婦たちが夫をバラバラに解体する『OUT』、東電OL殺人事件をモチーフにした『グロテスク』も傑作。

 

エドワード・ケアリー『おちび』 (古屋美登里訳)

おちび

おちび

 

  〈アイアマンガー3部作〉のエドワード・ケアリーが、革命の嵐が吹き荒れる18世紀のパリを舞台に、蝋人形館でもおなじみのマダム・タッソーの数奇な人生を描いた小説。ヴェルサイユ宮殿マリー・アントワネットも登場する、読みどころ満載の物語。

 ◎モー・ヘイダー『喪失』(北野寿美枝訳) 

  ただのカージャックだと思われていた事件が、後部座席に乗っていた少女が目的だったと判明する。子どもたちを次々に襲う姿なき小児性愛者と警察との戦いを描いた英国ミステリー。シリーズ作ですが、この作品から読んでも大丈夫。

 

サラ・ウォーターズ『荊の城』(中村有希訳) 

荊の城 上 (創元推理文庫)

荊の城 上 (創元推理文庫)

 

  2017年に日本でも大ヒットした、韓国映画『お嬢さん』の原作としてもおなじみの作品。映画は日本統治下の韓国を描いていたが、原作の舞台はヴィクトリア朝のロンドン。下層社会で暮らすスウは詐欺師の指示に従い、名門一族の令嬢の侍女として屋敷に潜りこむことに成功し、世間知らずの令嬢をだまそうとするが……原作と映画の相違点を比べてみるのもおもしろい。

 また、私が思いついたオススメ本も、参考に挙げておきます。

 

角田光代『八日目の蝉』 

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

 

  角田さんはミステリー作家ではないが、きめ細かい描写で人間の心の多面性を描くことがほんとうにうまい。家族の問題、とくに支配的な母親を扱った作品が多い点も、ウォルターズと共通するものがある。なかでも、不倫相手の子どもを奪った実話をベースとした『八日目の蝉』は心理サスペンス要素が強く、また壊れた家庭で育った子どもという存在を見据えているのも興味深い。

 

マーガレット・ミラー『まるで天使のような』(黒原敏行訳) 

まるで天使のような (創元推理文庫)

まるで天使のような (創元推理文庫)

 

  作風としては〈英国ミステリの女王〉のひとりであってもおかしくないが、アメリカを代表する女性ミステリー作家。数々の心理サスペンスを手がけたなかでも、この『まるで天使のような』は探偵役の男を配するという伝統的なミステリーの手法で、新興宗教や家族間の問題を描いた意欲作。夫のロス・マクドナルドの『さむけ』や『ウィチャリー家の女』も、探偵リュウ・アーチャーが家族の軋轢に踏みこんでいる。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

  
 最後に『氷の家』の解説で、ミネット・ウォルターズが「生涯の三冊」として挙げている小説を紹介します。

ハーパー・リーアラバマ物語』(菊池重三郎訳) 

アラバマ物語

アラバマ物語

 

  正直なところ、古典として名高いけれど、読んだことがある人にはめったに出会わないイメージもあるが……いや、白人女性を強姦したという嫌疑をかけられる黒人男性の事件を描いたこの小説は、いまこそ読むべき意義があるのだろう。英米ではいまも読み継がれている国民的物語なので、小説の潮流を理解するうえでも必読かもしれない。

 

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な旅人』(村上春樹訳) 

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

 

  1930年代の貧しいアメリカ南部を舞台に、人々の心に潜む孤独や絶望を見据えた作品。ちょうど村上春樹による新作が出たばかりなので入手も容易。これでもう読まないわけにはいかない。

 

グレアム・グリーン『権力と栄光』(齋藤数衛訳)

権力と栄光

権力と栄光

 

  カトリック作家として、人間の業と信仰の関係をとことんまで考え抜いた作者の代表作。ウォルターズは、グレアム・グリーンを一番好きな作家かもしれないと語っている。

  さて、今回オンライン読書会を実施して、読んだ本について語りあい、オススメの本の情報を交換する愉しみは、リアルと変わらず可能であることを確認しました。

 もちろん、私も含めて参加者のみなさまも、画面越しに語りあうことにはまだあまり慣れておらず、顔を見て話せないもどかしさを感じる瞬間もありましたが、一方で、場所を押さえる必要もなく、全国どこからでも参加可能なオンライン読書会を続けようと思います。
 リアルの読書会やイベントはめっきり減ってしまったけれど、読書シーンを少しでも活性化できれば……と考えております。

 さて、次回の大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン第2回)は、11月8日(日)15時~に開催します。課題書は『フランケンシュタイン』(どの訳書でも可)です。

 参加受付は、昭和生まれの者にとっての永遠の体育の日、10月10日(土)午前10時から行います。ご興味がある方は osakamystery@gmail.com にご連絡ください。あるいは、私のツイッター経由でも結構です。
  怪物はいかに生み出されたのか……? 楽しく語り合いましょう!

誰もが心に秘めている闇とは? ミネット・ウォルターズ『氷の家』(成川裕子訳)から『A Dreadful Murder』まで一

  9月26日(土)の読書会(課題書『カメレオンの影』成川裕子訳)の予習のため、ミネット・ウォルターズのデビュー作『氷の家』と、2013年に発表された『A Dreadful Murder』(未訳)を再読しました。 

氷の家 (創元推理文庫)

氷の家 (創元推理文庫)

 

  まず、ミネット・ウォルターズがどういう作家かというと、『氷の家』の解説で紹介されている「エドガー・アラン・ポージェイン・オースティンと協力して優れた英国ミステリを書きあげていたとしたら」という宣伝文句がわかりやすいかもしれない。

 この『氷の家』は、十年前に夫が失踪したフィービが、アンとダイアナというふたりの女友達とともに暮らす古い屋敷が舞台となっている。周囲の村人たちはフィービを夫殺しと噂し、三人の女を魔女やレズビアン呼ばわりしている。
 そんなある日、屋敷の氷室で謎の死体が発見される。死体の正体は? 行方不明になったフィービの夫なのか? ウォルシュとマクロクリンという二人の刑事が十年前の事件の真相を調べはじめる……という物語である。

 『氷の家』には古い屋敷や死体といったゴシック要素、最初は反発していたふたりが魅かれあうといったロマンス要素もあるが、なにより、村人たちの何気ない噂や悪意がさらなる悲劇を生むという構造を描いたところが印象に残る。誰もが心に秘めている闇、他人を蹴落とそうとする悪意、相手を支配したい欲望……こういったものが、ウォルターズの小説では赤裸々に描かれている。

 そこで、近年の作品『A Dreadful Murder』を読むと、その視点がまったく変わっていないことに驚かされた。 

  この『A Dreadful Murder』は、1908年にケント州のアイテム(Ightham)という村で実際に起きた Caroline Mary Luard の未解決殺人事件をもとにした中編小説である。

  Carolineの夫Charles Edward Luardは元軍人であり、州の議員や治安判事も務めた地方の名士であった。Carolineは上流階級の妻にふさわしく、熱心に慈善活動に取り組んでいた。社会保障などが手薄だったこの時代、お金持ちの慈善活動によって救貧院に送られるのを免れた人々も少なくなかったようだ。(※以下、実際にあった事件をもとにしているので、ストーリーの結末まで書いています)

 1908年8月24日の昼下がり、CharlesとCarolineは散歩に出た。Charlesはゴルフ場に行ってゴルフバッグを取って来るのが目的だった。Carolineは友人のMrs. Stewartとお茶の約束があったので、それまで少し身体を動かそうと思ったのだ。
 ふたりは家を出てしばらく一緒に歩き、教会を越えて小さな門のところで別れ、Charlesはゴルフ場へ向かう。

 そして、夕方Charlesが家に戻ると、Mrs. StewartがまだCarolineを待っている。まだ帰っていないのか? 不審に思ったCharlesが家を出て、Carolineの歩いていった方向を探すと、隣人の敷地内にある豪勢なサマーハウスのベランダでCarolineの死体を発見する。頭を銃で二発撃たれていた。

 ケント州警察の署長Henryはすぐにロンドン警視庁に応援を求め、警視のTaylorとともに捜査を開始する。殺されたCarolineは指輪と財布を奪われていた。撃たれる前に頭を強く殴られている。行きずりの強盗の仕業だろうか? あるいは強盗は単なる偽装で、Charlesに恨みを持つ者の犯行かもしれない。Charlesが治安判事だったときに、刑を宣告した者を洗い出さねばならない。

 ところが、そんな捜査とは裏腹に、Charlesが妻を殺したのだという噂が村じゅうを駆け巡る。
 Carolineが撃たれたのは午後3時15分である。近所の複数の人間が銃声を聞いている。一方、午後3時20分にゴルフ場に向かって農場を歩いているCharlesの姿が目撃されている。この二地点は到底5分で移動できる距離ではない。しかもCharlesは70歳近いのだ。
 さらに、Charlesの所有しているすべての銃は、Carolineを撃った弾とは合わない。新たに銃を手に入れた形跡もない。そもそも、どうして隣人の敷地内で妻を殺すのか? 以上のことから、Charlesを犯人とする根拠はまったく見当たらなかった。

 それなのに、噂はいっこうに収まる気配はない。それどころか、Charlesが週に2日ゴルフに行っていたのは、愛人に会うためだったという噂すら広まる。誰もその愛人を見たことも聞いたこともないというのに。警察署長HenryがCharlesの親しい友人なので、証拠をもみ消しているにちがいないとまで言われる。ついに、Charlesのもとに匿名の手紙が届きはじめる。 

WE ALL KNOW YOU SHOT YOUR WIFE.

YOUR FRIEND THE CHIEF CONSTABLE CAN’T PROTECT YOU FOREVER.

YOU DON’T DESERVE TO YOUR LIVE. DO EVERYONE A FAVOUR.

KILL YOURSELF.

  警視Taylorは、Charlesに大量に送られ続けるヘイト・レターを見て愕然とする。長年ロンドン警視庁で働いてきたが、隣人たちがこれほどまでの悪意をむき出しにする事件に遭遇したことはなかった。Carolineの「友人」とされていた者たちも、Mrs. Stewartを筆頭に手のひらを返した。Carolineの知人のなかで唯一信用できそうな Sarah の証言をもとに下層階級の若者たちに目をつけるが、村から逃げられてしまう。

   捜査が行き詰まり、頭を抱えるTaylorのもとに悪い知らせが舞いこむ。
   Charlesが自殺したのだ。HenryがCharlesの遺書を読みあげる。もう生きていく気力がないと書かれていた。この遺書を公表しないと、Charlesが妻を殺した罪悪感のせいで自殺したと思われるのではとTaylorが言うと、公表したって同じことだとHenryが答える。真犯人が見つからないかぎり、Charlesが犯人だと言われ続けるにちがいない、と。
 そうして結局、真犯人が見つかることはなかった。

 この物語を読むと、読者も警視Taylor同様に村人の悪意に愕然とさせられる。上流階級であったCharlesとCarolineに対して周囲の人間が抱いていた敵意が、殺人事件をきっかけに堰を切ったように放出される。当人が自ら命を絶つまで噂や中傷が止むことなく、ヘイト・レターが次々と押し寄せる。なんだか現在のネットの状況と重なるようにも思える。

 犯人はいまだ判明せず、WikipediaではJohn Dickmanという別件の殺人事件で捕まった男が関与している可能性があると記されているが、この物語では、同じ村に住む貧しい下層階級の若者の仕業ではないかと示唆している。

 かねてからCharlesは非情で冷酷な人間であり、Carolineは可哀そうな犠牲者であったと村人たちは語りあうが、慈善活動に精を出していたCarolineもCharles同様に村人たちから憎まれていたのだろうと作者は推測する。なぜなら、よろこんで施しを受ける者などいないからだ。誰も好きこのんで頭を下げたりはしない。

 Charlesは遺書で “The dreadful murder of my wife has robbed me of all my happiness.” と綴り、ここからこの物語のタイトルが取られているが、“a dreadful murder”(恐ろしい殺人)の対象になったのは、CarolineよりむしろCharlesだと言えるのはまちがいない。

  それにしても、デビュー作からえんえんと人間の複雑な心理や心の闇に向き合い続けて疲れないのだろうか? と思いつつ、2015年に掲載された作者のインタビューを読んだところ、

It’s so much more interesting to write a repellent character than a sweet, saintly one. I’d get bored of a totally nice character after three pages.

(聖人のように心やさしい人間より、嫌なやつを描く方がずっとおもしろい。登場人物がどこから見ても「いい人」だと、3ページでうんざりする) 

 とあって、さすがだな……!と心から感服しました。www.theguardian.com

 さて、今回の読書会の課題書『カメレオンの影』では、そんな人間の心の闇や悪意がどのように描かれているのか? 一緒に読み解いていきたい方は、ぜひとも読書会にご参加ください。ZOOMを使ってのオンラインでの開催なので、全国(もしくは外国でも)どこからでもご参加可能です。 

カメレオンの影 (創元推理文庫)

カメレオンの影 (創元推理文庫)

 

 

パンデミックの真相を探るリアルなディストピア小説 The Waiting Rooms (Eve Smith)

 Amazonで評価が高かったので気になった、小説“The Waiting Rooms”を読みました。作者Eve Smithのデビュー作であり、まだ翻訳は出ていません。まずは、どういう物語か説明すると―― 

The Waiting Rooms

The Waiting Rooms

  • 作者:Smith, Eve
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

  この小説はKate, Lily, Maryの三人の女性の視点から交互に語られていく。
  まずはイギリスを舞台にしたKateの章からはじまる。Kateは人々を死へ誘う仕事をしている。というと衝撃的だが、殺し屋などではなく、看護師として合法的に働いている。それにはこんな背景がある。

 20年前、抗生物質が効かなくなる “Crisis(危機)”が発生し、悪性の結核パンデミックによって、世界中で多くの人命が失われた。Crisis以降、人類にとって感染症が最大の脅威となった。新型の抗生物質は貴重なものとなり、全員に投与できないため「命を選別する」必要が生じた。

 70歳以上の人間は、病気になっても治療されることなく、“The Waiting Rooms” でひたすら死を待たなければならない。末期の痛みを緩和するものも与えられない。よって、70歳以上の大半は、病気になると "directive" に署名して安楽死を選ぶようになった。つまり、Kateは安楽死をサポートする仕事をしているのだ。

  一方、同じくイギリスに住むLilyは、ケアホームで介護士のAnneに手厚く面倒を診てもらう日々を送っているが、まもなく70歳になることに怯えていた。

 70歳になると、ちょっとの擦り傷でもそこから感染したらもうおしまいだ。自分が若かった頃は、女王から100歳を祝うメッセージを送られた老人もそれなりに存在していたことが嘘みたいだ。いまは80代すらめったに見ない。Crisisの時に定められた、悪名高い Medication Law――70歳以上の人間には薬を与えない――に対する抗議活動が盛りあがっているようだが……

 そう、恐ろしいほど現在の状況とオーバーラップしている。パンデミックが起きたあとの世界。人々は感染をおそれ、常にマスクを着用している。ケアホームに面会に行くと、徹底的な消毒や検温がある。
 この小説は今年の春に出版されているが、現在のパンデミックのさなかに書きはじめたわけではないだろう。偶然なのか、それとも準備中だったものを急いで出版したのだろうか。

 もうひとりの主人公Maryの章は、Crisisの27年前(おそらく1990年くらいか)からはじまる。オクスフォードの博士課程で研究に勤しむ気鋭の植物学者Maryは、南アフリカでフィールドワークをしていた。そこでPietという男に出会う。

 PietはMaryの華々しい経歴を聞いてもさほど感心するようすもなく、自らの話を熱心に語りはじめる。Pietは南アフリカの植物から薬を作るプロジェクトを立ち上げていた。南アフリカでは、antibiotic resistance(抗生物質に対する耐性)が広がり、それによって悪性の結核がひそかに蔓延しつつあるらしい。その特効薬を作るために、Maryの力が必要だと協力を求める。

 Kateの章に戻ると、Kateの母親Penが75歳で亡くなる。まだまだ元気だったのに、肺炎になってからはあっという間だった。Kateは以前からPenが生みの親ではないことを聞かされていた。かねてからのPenの後押しもあり、これを機に実の母親に会いに行こうと決心する。夫のMarkとティーンエイジャーの娘Sachaにも計画を打ち明け、実の母親を探しはじめる。

 そこからKateの実の母親探しを主軸として進み、Kate, Lily, Maryの人生の糸が結びついていく。その糸は20年前のCrisisにつながっていく。あの時、いったい何が起きたのか? パンデミックはどうやって発生したのか? 

 パンデミックの描写がまさに現代と重なって物語に引きこまれるが、安楽死の問題についても考えさせられる。先日、ALSの患者の女性が安楽死を依頼し、実行した医師たちが捕まったのも記憶に新しい。

 この小説は安楽死の是非を深く考察しているわけではないが、Kateが死へ誘った老人の家族の苦しみや、Medication Lawへの抗議活動から暴徒と化した人々の姿が印象に残る。もちろん、もともとは人々の命を救おうとして看護師になったKateも、平気で処置しているわけではない。こうなってしまった世界で、死を選択せざるを得ない人々がなるだけ苦しまず、人としての尊厳を失わずに済むように、できるかぎりのことをやっているだけなのだ。

 現在の日本でも、安楽死がすぐに合法化されることはないだろうが、老人や働けない人に医療費をかけるのは税金の無駄遣いだという説を耳にすることが多くなってきたように思う。そう考えると、この小説がいっそうリアルに感じられる。

 また、先にも述べたように、Kateの実の母親探しが20年前のCrisisの真相につながっていくストーリーが主軸、つまり縦の糸となっているが、横の糸として親と子の物語が織りこまれている。

 Kateと実の母親だけではなく、Kateが大人になっていく娘Sachaを見守る姿もていねいに描かれている。さらに、Crisis以前の南アフリカ謎の肺炎への特効薬を探して奮闘するPietは、自分と母親を捨てて家を出ていった父親に複雑な思いを抱いている。Pietの父親が、アパルトヘイト廃止に尽力した南アフリカ元大統領デクラークの熱心な支援者であったことも、Crisisの際に判明する。そして終盤では、とある親子の因縁が物語を大きく展開させる。

 けっして明るい物語ではないけれど、互いを思い遣るKateとSachaのキャラクターと、場面は少ないながらも、鮮烈に描かれる南アフリカの自然の美しさのため、読後感は意外に爽やかだった。

 それにしても、いったいこのパンデミックがいつまで続くのか? まったく見当のつかない現在、読書くらいはコロナのことを忘れたい!という気持ちもわかりますが、逆にこんなディストピア小説を読んでみるのも一興ではないでしょうか。